治療目的の「薬物」のドーピング効果

長谷川 良

独週刊誌シュピーゲル最新号(10月29日号)を読んでいて驚く記事に出会った。タイトルは「Kranke Helden」(病む英雄たち)だ。独ハイデルベルクの分子生物学者ヴェルナー・フランケ氏は世界最高峰の自転車レース、ツール・ド・フランスでは「気管支喘息治療中の選手たちに健康な選手たちは勝てない。なぜならば、気管支喘息の選手たちが治療目的という名目でドーピングをしているケースが多いからだ」というのだ。当方は健康な選手の方が気管支喘息で病む選手より断然有利と考えていたが、事実は全く逆というのだ。

▲「世界反ドーピング機関」のロゴ

気管支喘息の選手はその治療のために薬を飲むが、その薬は心肺機能を拡大し、酸素が多く吸収できるようにする。もちろん、選手は事前に許可を得る。これはTUE(Therapeutic Use Exemptionsの頭文字)と呼ばれるもので、「治療目的使用に係る除外措置」という。

興味深い事実は、このTUEを申請するスポーツ選手が増えてきていることだ。世界反ドーピング機関(本部カナダ・モントリオール=WADA)によると、2014年はTUE申請件数は897件だったが、昨年は1330件と急増した。スポーツ選手が昨年、急に病気になるケースが増えたからというより、TUEを得て、堂々とドーピングする選手が増えてきたことを意味するわけだ。

例えば、プロの自転車レース選手には自称・気管支喘息に悩む人が多い。治療薬の中には心肺に入る酸素量を増やす効果があるものが多い。その効果は絶大だ。フランケ氏が「ツール・ド・フランスは、気管支喘息者大会と健康な選手たちの大会に分けて行うべきだ」と提案するのは決して皮肉ではないわけだ。

ロシアのハッカー・グループ「ファンシー・ベアーズ」(Fancy Bears)は9月、WADAをサイバー攻撃し、TUEの許可を得た選手名の127人の名前を公表した。その中にはスター選手の名が多く含まれていたという。

自転車競技だけではない。体操、テニスなど多くのスポーツ競技に及んでいるのだ。注意欠陥・多動性障害(ADHS)に悩む体操選手やステロイド系抗炎症薬を摂取するテニス選手もいる、といった具合だ。

例えば、テニス男子プロ選手のラファエル・ナダル選手、テニス女子プロ選手のセリーナ・ウィリアムズ選手、イギリスの自転車競技選手ブラッドリー・ウィギンスなどスター選手たちだ。

もちろん、先述したように、彼らは正式に許可を受けて治療薬を摂取しているからドーピングの疑いを受けることがない。その一方、摂取する薬がドーピング効果をもたらすから、踏ん張りが強く、集中力が高まる。

名前を公表された選手たちはできることなら知られたくなかっただろう。ハッカー・グループはTUE所有者名の選手を今後も公表すれば、「アー、あの選手が」といった名前が飛び出すかもしれない。

シュピーゲル誌記者は「競馬の場合、怪我したり病気の馬は試合に出場できない。動物愛護グループから激しい批判を受けることにもなるからだ。しかし、人間の場合、病持ちが治療しながら試合に出ても誰も止めることはできない。プロのスポーツ界には人権は存在しないのだ」と述べている。

実際、ドーピングした選手たちが現役を終えた後、体調を崩し、通常の生活すら難しい、といったケースが少なくない。WADAはTUEの審査を厳格に実施し、治療用薬物の管理を進めているが、ドーピングで健康を損なうスポーツ選手が絶えないことは本当に残念だ。ドーピングが発覚した場合、スポーツ選手とその関係者への制裁を強化すると共に、ドーピングの恐ろしさを啓蒙する活動を一層進めるべきだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年11月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。