ピケティの『21世紀の資本』はあまり日本を理解する役には立たないが、彼の賞賛するグレーバーの『負債論』は役に立つ。経産省が電力会社に回す奉加帳も、役所が業者に借りをつくってそのうち返すという約束だ。このように国に「贈与」した後では、電力会社は行政訴訟を起こせない。
このように複雑な「貸し借り」で長期的関係を構築し、人々を共同体に囲い込むことが、借金の起源だ。経済学者は物々交換の中から「欲求の二重の一致」が必要になって貨幣が生まれたというが、純然たる物々交換によって成り立つ市場は人類学のフィールドワークでは見つかったことがない。市場は貨幣と同時に生まれたのだ。
貨幣が交換手段から価値貯蔵手段に進化したとか、コインが紙幣に進化したというのも間違いである。むしろ貨幣の最古の形態は、借金の証文なのだ。それは「信用している」とか「恩がある」という人間関係を示し、共同体の秩序を維持する役割を果たす。ゲーム理論でも、贈与が共同体への忠誠を示すシンボルとして長期的関係を強化することはよく知られている。
こうした貨幣の原型が生まれたのは、農耕社会になった新石器時代(1.2万年前〜)で、作物を植えてから収穫までのタイムラグを埋めるものだった。その支払いを担保するためには、共同体(国家)による強制が不可欠だった。つまり経済学者のファンタジーとは逆に、国家が貨幣を生み出し、貨幣が市場を生み出したのだ。
初期の経済システムでは、借金は人々の約束や人間関係のシンボルとして固有の意味をもっていたが、資本主義はもとは別々に生まれた市場経済と資本蓄積が結びついたシステムだ。現代の非人格的な市場は利己的で他人に無関心な人間を前提とし、そういう人々を生み出すシステムになった。
著者はアナーキストで、経済が個人の感情や道徳から切り離され、市場が「自己運動」しはじめたとき資本主義の暴走が始まったというが、それが爆発的な富の蓄積を生んだことも事実だ。将来世代が社会保障という名の借金を踏み倒す「革命」は、経済的には合理的だが、政治的には不可能だろう。
ペーパーバックで10ドルの原著が訳本で6480円もするのはいかがなものかと思うが、貨幣の本質的な機能は価値貯蔵手段だ(したがって国債のほうが重要だ)というのは、最近の経済理論でも論じられている。資本主義の未来を考える上でも、人類学的な研究が役に立つかも知れない。