「謝罪外交」から「慰霊外交」へ

長谷川 良

今年最後のコラムのテーマとしては不適切かもしれないが、「謝罪」と「慰霊(追悼)」について考えた。両者はその使用する状況も意味も異なるが、政治家が過去問題に踏み込む時、「謝罪」と「追悼」を意識的に使い分ける場合がある。積極的な外交を展開させている安倍晋三首相の外交は「謝罪外交」ではなく、明らかに「追悼・慰霊外交」と呼ぶべきだろう。

▲「真珠湾を訪問した安倍首相」(2016年12月27日、首相官邸公式サイトから)

「謝罪」の場合、その言動に問題があったことを認め、それを告白し、犠牲者に許しを請う行為だが、「追悼」の場合、犠牲者への慰霊を主要目的としている。犠牲者と追悼する本人との関係はそこでは厳密には問われない。戦争や紛争で亡くなった人々への同胞愛からの発露が追悼であり、慰霊だろう。

安倍首相は旧日本軍の慰安婦問題については謝罪を表明しているが、真珠湾攻撃では謝罪ではなく、犠牲者への慰霊を表明してきた。オバマ米大統領は今年5月、広島の原爆被爆地を訪ね、犠牲者への慰霊を表明しているが、謝罪はしていない。

「謝罪」外交の場合、政治家は国内で強い抵抗に対峙するケースが考えられる一方、「慰霊」外交の場合、国民の納得が得られやすいという事情がある。「謝罪外交」は時間を止めて、一定の言動をターゲットに集中するが、追悼は生きている現在の立場から亡くなった犠牲者への呼びかけであり、死者との連帯感の表明だ。

安倍首相は広島でオバマ氏に慰霊を願い、オバマ大統領は真珠湾では安倍氏に犠牲者への慰霊を求めたわけだ。両者の外交を積極的に評価するとすれば、「慰霊」が未来志向であり、敵国だった相手国との和解を最優先とした言動だという点だろう。

慰霊といえば、宗教者の姿を思い出す。「慰霊」は本来聖職者の業だ。様々な事情、状況から犠牲となった多くの魂に対し、生きている人間が慰め、癒しの声をかけ、未来への良き世界を約束する歩みだ。「謝罪外交」が加害者と犠牲者という枠組に拘り、どうしても政治的やり取りが出てくるが、「慰霊外交」は癒しと許しを前面に出した宗教的行為に近い。慰霊には敵も味方もない。

時間を止めるべきではない。緩やかな動きだとしても、時間の動きに合わせ、過去を振り返り、現在を律し、未来のために歩んでいくのが現代人の役割だろう。

「慰霊外交」を進める安倍外交が欧州で注目されるのは、欧州が過去、戦争や民族闘争の舞台となり、無数の人々が犠牲となった地だったからだろう。「謝罪」を求め出したら、和解の道が閉ざされてしまう。過去を追悼し、慰霊する言動こそ21世紀の現在、最も必要なことだろう。安倍外交に欧州が注目する点は多分、そこにあるのはないか。日本が敵国だったロシア、米国、そして中国とどのような和解を実現させるか、欧州は安倍外交の行方に関心を注いでいるわけだ。

最後に、1年前の日韓両国間の慰安婦問題の合意について、韓国の世論調査では「破棄すべきだ」という声が高まってきたという(聯合ニュース日本語版)。同時に、韓国の市民団体が在釜山日本総領事館前に慰安婦被害者を象徴する少女像を設置することに、管轄自治体の釜山市東区が認めたというニュースが流れてきた。年明けから安倍外交の真価が問われそうだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。