現在われわれが使う漢字のほとんどは、常用漢字表にあるものなのだが、この表を、たとえば自民党の首脳は、どのように思っているのだろうか。もし国語通がおられたら、ぜひともお答えねがいたいことの一つである。
常用漢字表というものも、敗戦後の占領下に急いで作られた当用漢字表の部分改良版に過ぎず、これもいわゆる戦後レジームであるからだ。もちろん首相の演説原稿だってそのレジームからは逃れられない。(しかしこの改革も、じつは日本陸軍の欲する所と、同一線上にあったものなのだが。)
さて、そんな質問はともかく、現行の漢字について考えてみよう。
大雑把に言って当用漢字表とは、(おおむね康熙字典体である)正字を、それまでからずっと通用していた手書きの略字体に、「置き換えらるれだけ置き換えた」といったものである。そのためほとんどの漢字で字画は減ったのだが、漢字(正字)の持つ意味構造と音の仕組みは、その簡略化の過程で、かなりが崩れてしまった。一部では立派に混乱も生じた漢字群もある。「云」というつくりを有する漢字など、その格好の例だ。
たとえば現行の
「雲」「伝」「芸」
という漢字には、おなじ「云」が使われているのだが、音はそれぞれ別々である。
「雲=ウン」「伝=デン」「芸=ゲイ」
といった具合。しかしこれを本来の正字に戻すと
「雲=雲」「伝=傳」「芸=藝」
である。こうして並べると「云」というつくりが「伝」と「芸」の音の要素でないことがわかる。「伝」「芸」にとって、つくりの「云」は仮の姿なのである。
(そもそも「芸」と「藝」は別の漢字であったのだが、戦後「藝」は略されて「芸」となり、元からあった「芸」のドメインを、完全に乗っ取ってしまった。)
「雲」を音で読むことはあまりないが、「雲量=ウンリョウ」「雲高=ウンコウ」「雲底=ウンテイ」といった用語もある。もし「云」と「雲」とが、音で通じていると知っていたなら、「云云」のヨミも覚えやすかっただろうし、まちがえるにしても「ウンウン」という風に読んだかもしれない。
戦後の漢字は、字画は減って一見のところ覚え易くなったけれども、音や意味の類推が難しくなったのである。活字は目で見る。だから画数が多くてもさほど判別の苦にはならない。むしろ意味構造がしっかりしている方がよい。しかし手で書く時は、早くて楽に書ける字体が便利である。手書きが主流の時代は、同じ漢字であっても、印刷する時は正字で、書く時は略字で、といった使い分けの方便があったわけだ。
しかしこれは、現在の状況と似ているところがある。画数とは関係なく、キーボードなどの入力と変換によって、すばやく漢字をあらわすことができる。構造を犠牲にしてまで画数を減らした字体を使う根拠は薄れているのだ。
ではどうすればよいのか。漢字を使うからには、漢字は便利で判り易いものであってほしい。画数はやや増えてもいいから、一度覚えたら忘れにくい字体がいい。数十年後でもよいし、百年後でもよいし、それこそ再来年からでもよいが、機会があれば、「偏」と「旁」に関して、意味からも、音からも合理的な再整理をすべきだ。わたしはいつもそう考えている。
それを誰がするのか。絶対に国語審議会など、集団に任せるべきではない。何かある毎に「全部足して出席者数で割る」ような集団でできるようなことではない。統一された方針が必要で、だれでもよいから個人が提案すべきだ。そうでなければ、筋道が通らない。日本語の表記法に関心のある大学生だったら、試案くらいできないこともないだろう。PCを使えば、仮のフォントだって立派に組める。そうやって多数の案から、簡素にして意味と音に整合性の高いものを選べばよい。その発表も、インターネットで各々ができる。衆知による修正補綴はその後で十分。
以上はなかなか実現はしそうにない腹案ではあるのだが、日本語の表記に関して何かしようというのであれば、せめてこのくらいの展望は持っておくべきであろう。おおげさなようだが、立場上この字体の件は切実であって、わたしにとってそれは、憲法問題に、いささかも劣らない。
*文字例の画像「云 云 伝 伝 傳」は
奈良文化財研究所と東京大学史料編纂所による
『木簡画像データベース・木簡字典』『電子くずし字字典データベース』
の『連携検索』から作成
2017/01/26 若井 朝彦
戦後の国語政策と「云云」