陛下に韓国で謝罪させたがっている人たち(特別寄稿)

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、1月からアゴラ研究所のフェローに就任した八幡和郎さんのオリジナル寄稿です。ボリュームはありますが、皇室の歴史研究をライフワークの一つにしている八幡さんの危機感に満ちた渾身のエントリー、ぜひご覧ください。

新年一般参賀に臨まれた天皇皇后両陛下(宮内庁サイトより:編集部)

「お言葉」から皇室問題は思わぬ展開を見せている

陛下が退位についてのお言葉をビデオメッセージで発表され、それが、カットや編集もないまま何度も放送され、しかも、いつも政府のすることなど皮肉しか言わないコメンテーターたちが、歯の浮くような言葉であがめ奉ったとき、これは危ないと思った。

私自身は、その夜に、BS放送で解説をしたのだが、陛下のご希望は謹んで聞くにせよこれをどう扱うかは政府や国会の責任だとしたのだが、そういう言い方は、少し異色だったと思う。

そして、アゴラでも陛下のお言葉が立派すぎて国民が議論できなくなってしまわないか心配だと私は書いたのだが(昨年8月のエントリー)、心配通り、非常に困った問題がいろいろ起きている。

とくに、今回のように、日本国民のかなりが第二の玉音放送的な受け取りをするという、象徴天皇制においてあるまじき反応をしたのは、大きな誤算だったと思う。

とくに、ひどいのは、天皇と内閣を対立的にみて陛下を自分の陣営に引き込んで政治を動かす、今の天皇は良いから支持する、陛下のご希望だからかなえてあげたい、という一連の困った動きがあることであり、いずれも憲法と象徴天皇制を危機に陥らせかねないものだ。

退位問題そのものについても、なぜ、陛下のご希望の通りにただちにしないのかとか、「御意のままに」とか象徴天皇制のもとでありえないことを言う人がいる。

さらに、陛下の希望通りに、という人たちの一部は、それを梃子に、陛下は憲法改正を望まれていないとか、この政策に反対されているはずとか、訪韓して謝罪されたがっているとか、皇位継承についても陛下のご希望をお聞きしてその通りにしろとかエスカレートしている。

とくに訪韓させて謝罪させようということに照準を絞っている人たちがいる。かなり踏み込んだことを仰ることを期待し、さらに、それを事実上の謝罪だと喧伝するつもりなのであろう。

なにしろ、FIFAワールドカップ日韓大会のおりに、陛下が桓武天皇の母親は百済王室の血を引くと「ゆかり」をおっしゃったら、韓国の大新聞が、皇室が百済王家の分家であるがごとき解説を載せたのだから油断も隙もない(実際は光仁天皇が序列が高いわけでもない皇族だった時代に側室だった桓武天皇の母が百済王家の子孫の下級官吏の娘だったと言うだけ)。

以下、もう少し論点を整理して、おこう。

「君主はできるだけ自分の意見を言わない方が良い」

私は、少なくとも、結果論としては、あのテレビでのお言葉の発表の仕方は失敗だったと思う。内閣に内々に希望を伝えて検討を依頼するに留めるのが筋だし、もし、国民に直接に語りかけるとしても、記者会見で質問に答えるような形が良かったと思う。

私は世界の王室についても、皇室の歴史についても何冊も本を書いてきたからこそ思うのだが、世界各国の状況や、日本の歴史からしても、君主が自分の意見を表に出すのは慎重であるべきだ。

その意見そのものや、それを出したことの是非について、国民から自由に批判されることになるし、また、結果に責任を持たなくてはならなくなり、君主制度の安定を損なう。

とくに、「御意のままに」とかいって責任を君主にとらせようという、忠臣ぶった反皇室主義者が厄介なのだ。

天皇陛下のご希望だからかなえてあげなくてはという発想は反憲政主義だ。君主が自分の希望はこうだが、あとは、みんなで相談してよきにはからえと仰っているのに、君主の希望がこうだからこうするなどということになると、君主はその決断に政治的責任をもたねばならなくなる。これは、君主制にとって極めて大きいリスクをもたらす。

「陛下が仰るのだから」というムードになったのは、国民のレベルが低いのか、マスコミが悪辣なのか、内閣のミスなのか、宮内庁が悪いのか、はたまた、陛下の見通しが甘かったのかはともかく困った事態なのだ。

せっかく今上陛下が象徴天皇制の徹底を生涯通じて推進されてきた趣旨と、著しく反する経過になったことは否定できない。

以上のような意味で、ビデオメッセージというやり方はよろしくなかったと思うのだが、もう済んだ話なので、今後、陛下のご希望を象徴天皇制の本旨にしたがって受け止め、国会と政府が様々な配慮を総合的に判断して慎重に決めるという線を建前の上でも実質的にも崩さないようにしないと悔いを残すので極力避けるべきだ。

「天皇陛下や皇室と言論の自由」

皇族の方々といえども個人としておっしゃりたいことがあるのは、当然である。しかし、立場上、制約があるのは、ほかの公務員と場合と同じであろう。

とくに天皇陛下の場合には、かなり厳しく制約されるべきだし、皇位から遠い皇族になればその程度に応じて自由度が増すということだと思う。

陛下の場合には、私は首相に対していろいろ仰るのは支障ないと思う。イギリスの女王は、国家機密にふれることができ、説明を求めたり、意見をいうことが出来ることになっているが、それが女王の意向として外に出るのは極めて好ましくないとされている。スコットランドの独立やEU離脱に女王が反対なのは周知の事実だが、少しでもそういうことを臭わす発言があると、非難囂々、王制廃止論議に火が付いていた。

また、イギリスではドイツに対して融和的だったことからエドワード8世が廃位されたことがある(離婚経験のある夫人との恋愛より本当の理由はドイツとの関係と言われている)。

チャールズ皇太子の場合も、次期国王なのだから、かなり強い制約がある。チャールズは長い間、皇太子であることからくる屈折した感情があって、文化から政治までかなりユニークな意見を公にしたり、政治家に要望したりするのだが、それが表に出るたびに、非難囂々で、王位継承はウィリアム王子に飛ばすべきだという意見も強い。

つまり、陛下の希望を表に出すなら、それを踏まえて自由に多方面から議論して、「なるほど、陛下の仰るとおりだ」と政府も国会も判断し国民もそれを支持すればそれはそれでよし。逆に、やっぱり不都合が多いとなれば、「おそれながら、従前どおりの原則でお願いします」とするのが象徴天皇制の本旨であろう。今回の陛下のお言葉についても、そういう趣旨だということは以下に掲げた天皇誕生日のお言葉でも再確認されている。

ただ、そうはとらずに、「御意のままにすべきだ」、「政府が改めて検討することはおかしい」という反憲政主義的な受け取りが蔓延していることが問題なのだ。そして、そういう反応が出てしまった以上は、ああいう形でのお言葉の発表は思慮が足らなかったということになる。

参考:天皇誕生日記者会見でのお言葉「8月には、天皇としての自らの歩みを振り返り、この先の在り方、務めについて、ここ数年考えてきたことを内閣とも相談しながら表明しました。多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」。

「陛下は憲法や外交について希望をどのくらい表に出せるか」

憲法において天皇陛下は、ひとことでいえば、首相の意向に沿って物を言い行動することが求められている。イギリスでは、女王が日本でなら首相が読み上げる所信表明演説を女王が首相が用意したとおりの言葉で読み上げるがそれが本来の立憲主義のあり方だ。

それでは、天皇陛下が自分で政治判断されることがあるかといえば、ふたつだけあると思う。第一は、二つの憲法のどちらが正しいか分からないときだ。そういう意味では、日本国憲法は押しつけなので「無効」であり大日本帝国憲法が有効だという意見について、陛下は君主としての責任において日本国憲法が有効だという立場を表明されている。

第二は、たとえば、国会で二人の首相候補が自分が選ばれたといったときだ、どっちが正しい首相か決める第三者的機関を憲法は定めていないから、天皇陛下しか決める人がいない。

もちろん、上記の判断の内容について、陛下は批判の対象となりうるのだが、判断することそのものは否定すべき事でない。

また、陛下が現行憲法を擁護する立場だ。たとえば「いまの平和憲法は誇るべきものだ」と肯定的にいうのはセーフだ。ただし、憲法改正の可能性をネガティブにいうようなことは絶対に許されない。

外交についてどこまで自由度があるかといえば、基本的には政府から自由であることはあってはならない。

たとえば中国や韓国にどの程度に遺憾の意を示したり謝罪をするとかいうことは100%、政府の意向のもとで行われるべきことだ。

ただ、外国のロイヤル・ファミリーとのあいだの交流については、それなりの独自判断があってしかるべきだと思うし、実際にそうされている。

それ以外の国家元首との個人的関係は難しいところだ。昨年、フィリピンを訪問されたときに、アキノ大統領の任期中に来たかったというようなお言葉があったが、このあたりは境界事項だろうし、会いたい、会いたくないとかいうことは、政府の意向が基本であるべきだ。しかし、ある程度は個人的希望が反映されることまでいけないともいえない。

なお、昭和天皇については今上陛下とは違う特殊な状況があった。それは、戦前の象徴天皇にとどまらない国家指導者としての立場、また、大元帥としてのお立場があった以上、たとえば、戦争について海外へ向けてご発言になるとき、その過去を無視できなかった。つまり、ご自身の考え方を述べざるを得ないことが多々あった。

しかし、そのような特殊な立場は今上陛下にも今後の陛下にも、ほかの皇族にもないのであるから政府から独立した立場での見解はありえない。

「皇室のあり方について天皇陛下や皇族の意見は尊重されるべきか」

天皇陛下は、日本国憲法に基づいて設けられたというべきかどうかは、二面性がある。

陛下自身が即位に当たって日本国憲法の規定により即位すると仰ったとおり、ご自身の正統性を憲法に求められているようだ。

しかし、憲法は皇室や天皇についての制度を創造したのではなく、もともとあるものを追認しただけという面もある。

たとえば、憲法には皇位は世襲だと書いてある。これだけを見ると、たとえば、まったく縁もゆかりもない人物を養子にしたって世襲でないとはいえない。しかし、それが許されると誰も考えないだろう。

あくまで、伝統的な皇位継承原則に沿う皇位継承が「世襲」という憲法の文言から求められていると解釈すべきだろう。そうすると、たとえば、つなぎとしての女帝は、過去にも例があるからセーフだが、いわゆる女系天皇については、従来の原則から外れるから、憲法上も慎重であるべきだ。

私はやむを得ず、従来原則から外れざるをえないということであれば許されるが、そうでなければだめだという解釈をしている(つまり、男系でいろいろ工夫もしたうえでもダメなら女系もありうるということで、現状では努力が十分でないから女系は許されないという立場だ。だから、男系論、女系容認論の中間派だといわれる所以である)。

それでは、この皇位継承問題を論じるに当たって皇室の方々の意見はどう扱われるべきだろうかといえば、この憲法第一条から第八条のもつ二面性から結論は演繹される。

つまり、日本国憲法の規定では、天皇陛下や皇族の判断の入る余地はなく、政府と国会がもっぱら決めることだ。

しかし、その一方、天皇や皇族に関する制度がもともとあるものを追認したものであるのだから、その制度を支えてきた関係者の意向は重要な参考意見であるべきだ。

しかし、この立場は、天皇陛下に限定されるものではない。日本の歴史をひもといても、皇位継承などは、そのときの天皇の独断ではなく、集団指導体制で決まってきた。そういう意味では、たとえば、皇室典範を改正するというような場合には、陛下ご自身だけでなく、皇族、旧宮家、旧華族(とくに公家系)、その他、皇室にかかわってきた人や皇室とともに活動してきたさまざまな組織の人たちの意見は広くきかれるべきだと思う。

その立場からは、小泉内閣の皇室典範論議のなかで、三笠宮寛仁殿下や旧宮家の人々が自分たちの意見も聞いて欲しいというような意向を示したのは正当だった。

私はこのところ、皇室イコール天皇陛下というような風潮があるのは歴史に照らして異常事態だと思う。

また、皇位継承の対象を、結果的にせよ今上陛下の子孫に限定しようという動きをする人がいるが、絶対にあってはならないことだ。

世界史をみて、特定の君主の子孫に王位継承権を絞ると言うことはある。普通は王朝の創始者であったり、中興の祖といわれる人だ。

オランダでオラニエ・ナッソー家が17世紀から国家元首だが、正式に国王になったのは19世紀なので、そのときのウィレム1世の子孫だ。

イギリスでは論理的には1066年にイギリスを征服したノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)が神武天皇にあたるが、宗教戦争の結果として、カトリック教徒を排除するために、ハノーバー公妃ゾフィーの子孫に限定されているが、それでも2000人の有資格者がいる。

日本でははっきり決められていないが、現実には、南北朝時代の北朝の子孫に限定されてきた(北朝の天皇は正統性がないという立場にたっても、後小松天皇への神器譲渡以降は北朝系の天皇が正統であることに疑いは生じ得ないから問題はない)。

もし、現在、悠仁親王以降、男系が続かなければ、男系は伏見宮系しかいない。伏見宮系は南北朝時代の北朝称光天皇の子孫で離れすぎだという人もいるが、少なくとも皇統維持が困難に直面していた幕末や明治時代にあっても伏見宮系が皇位継承の候補であることと認識されており、南北朝時代の亡霊が出てきたような言い方はおかしい。

それに対して、女系も考慮すべきだという意見があるが、それなら、有資格者はどの天皇の子孫かといったときに、どこかの天皇の女系子孫に限定するとしたら、その天皇は中興の祖的な天皇でなければならず、常識的には明治天皇ということになる。

明治天皇には北白川、朝香、東久邇、竹田という四宮家に皇女を嫁がされており、その男系子孫も多くいる。また、大正天皇の皇子である故三笠宮殿下には娘もおられ、その子孫がおられる。そして、昭和天皇の四人の皇女のうち、東久邇家と島津家には子供がおられる。

もし女系天皇を認めるのなら、彼らもまた有資格者であるべきだ。まして、そのなかには、旧宮家の男系男子までいて、合わせ技として極めて高い正統性をもっているのだからなおさらだ。

そのあたりをすべて排除して、今上陛下の子孫に皇位継承を限定するとすれば、それは、世界の皇位・王位継承の歴史においても際だって乱暴なことだと思う。とくに、今上陛下がご在位中に、そういう馬鹿げた方向性について議論をするのはありえないことだし、将来の人が歴史を語るときに陛下に迷惑をかけることが火を見るより明らかだ。

「宮内庁など皇室をめぐる人々の弱体化」

また、陛下にとっても、ほかの皇族にとっても、宮内庁の充実と、質の高い多様な意見が陛下や他の皇族のお耳に入ることも大事なことである。

たとえば、昭和天皇のときすら、貞明皇太后は昭和天皇にとって最強の抵抗勢力だったし、弟宮さまたちはしばしば反対意見を天皇に突きつけた。内親王たちだって一筋縄ではいかない存在だった。多くの宮家もうるさ型揃いだった。

ところが、今上陛下の場合は、そういう皇族といえば、三笠宮寛仁殿下くらししかいなかったし、立場と性格が違いすぎて対話が十分に成立していたとはいえない。皇后陛下はよき相談相手、助言者だが、苦言をいうという立場でない。

宮内庁も、昭和天皇の場合の木戸内大臣とか田島宮内庁長官のような存在も、入江相政侍従長のような人もいない。いろいろ工夫がされて時代のうつりかわりに前向きに対応していることはよく承知したうえでいうのだが、大きな流れとして弱体化しつつあることは間違いないことだ。

政治家との関係でも、今上陛下と政治家、とくに首相が腹蔵ない対話をしているとはいえない。それは、海外の君主国であまり考えられない異常なことだ。どちらかが悪いということでなく。そういう習慣がないのだ。

歴史や外国の制度についても、質の高い情報や見識が陛下や皇族のところに集まっているのかいささか疑問である。人気のある歴史作家や学者がご進講したとか、どういう本をお好みになっているとかいう話がまれにもれてくることもあるが、果たして、その人とか本の選択はやや文学的に過ぎて陛下や皇族の立場にふさわしいかはやや首をかしげるところもある。

社会主義について肯定的だとかいう傾向はまったくなく、親米リベラルの路線に共感を持っておられるように見ることができるし、皇室の歴史については、明治以前の皇室に対するある種の共感が感じられる。また、ストイックな点については、かつて愛読書として「雍正帝」(宮崎市定)を上げられたことがあることからもうかがえる。

どういう人たちが、両陛下や皇族などと自由に話せるかというと、どうも、かつてのご学友など狭く偏った範囲の人の比重が重すぎるように気がする。

そして、そのご学友が不規則なかたちで、陛下との会話をリークしたり、なぜ陛下のご意向を内閣はすぐに実現しないとか陛下の代弁者のごとくふるまって偉そうなことをいっているのは論外だ。

「文藝春秋」誌上で陛下とのやりとりを公開した某ご学友は、麻生副総理から、「余計なことをたくさん喋って陛下とのやりとりを世間にひろめることは止めて下さい」と人づてに注意されたと自身が書いているが当然だろう。

私もかつて海外での経験を報告させていただいたことがあるが、やりとりは絶対に口外無用と厳しく口止めされた。政治的に驚くほど踏み込まれた内容もあったから当然だし、絶対に公開などできない。将来、歴史として語られるときになったのならいざしらず、陛下が非公式に仰っていることを関係者が話し出したら、ひどい混乱は避けられないだろう。昭和天皇の非公式のご発言でも公になったのは平成になってからだ。

ぎりぎりあるとしても、「学友として察するに」とかオブラートに包んで自分の推察に過ぎないということで話すのが限度だと思う。陛下から電話があってなどと得々と話すなどもってのほかであろう。

また、国会でも民進党の細野豪志は、「恒久的な制度として皇室典範を改正するという結論を出すべきだ」と迫って、安倍首相から「玉座をもって胸壁と成すことだ」と反論されたが、陛下がこうおっしゃっているのだからこうしろなどと国会でいうのは旧憲法下も含めて憲政上の不祥事だ。

実は、私もこの問題は皇室典範を改正して行うことが望ましいとは思うが、そうするのは、将来起きるさまざまな可能性をシュミレーションして対応出来るようにするべきであって、現在の状況に対応するために慌ててするべきでもできる問題でもない。

その一方、国民が陛下が退位したいとおっしゃっているのだからそう差し上げたらという気分が世間にあり、そのこと自体はさほどの支障はないとなれば、特例法でそれを実現するというのは、妥当な結論なのである。それを、恒久措置を陛下のご希望通りに普遍の原則として好ましいかも十分検討せずに、だまって実現しろでは憲政も象徴天皇制も吹っ飛んでしまう。

皇室の問題については、これまでも、アゴラでも論じてきたが、ここしばらく、ご学友などの不規則発言、リベラルと称するマスコミや識者がこともあろうに政府と対立する政治勢力として陛下を利用しようとしたり、さらには、国会でだまって陛下のいうとおりにさっさとしろといわんばかりの質問が野党からされたりする状況のなかで、少しあまり論じられない立場からこの問題を一歩踏み込んで論じて見た。

この問題については、アゴラでもさまざまな議論の展開があり、池田信夫氏も大胆な議論を展開されている。池田氏は京都の出身だし、私もいま京都に住んでいる。京都人のもつ皇室との距離感の近さが池田氏の議論にも私の考え方にも反映されていると思う。他の地域の人のように仰ぎ見るのではないのだが、愛着もまた他の地域に比べて篤いのである。

八幡 和郎
平凡社
2013-06-17

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八幡 和郎
PHP研究所
2016-10-05