「競合脱線」で成功したポピュリズム:『ロシア革命』

池田 信夫
池田 嘉郎
岩波書店
★★★★★



今年はロシア革命100周年だが、本書は「10月革命」ではなく「2月革命」の時期に出版されたことに意味がある。従来のロシア革命についての本は――批判的なものでさえ――それを何かが生まれる過程として描いているが、本書はそれを何かが崩壊する過程として描く。

その主役はレーニンやトロツキーではなく、2月革命を実現したミリュコーフやケレンスキーである。彼らがロマノフ朝を倒して樹立した臨時政府は各地の労働者・兵士のつくったソヴィエトと並立し、中央集権的な政府ができなかった。臨時政府は自由主義者と社民主義者の連立政権だったが、離合集散を繰り返す「ワイマール状態」だった。

当時は第一次大戦でロシアの農村を支えてきた家父長的な秩序が崩壊し、社会の「底が抜けた」が、新しい市民社会はできなかった。寄り合い所帯の臨時政府は混乱をまねき、たびたびクーデタが起こった。これに対抗して兵士がソヴィエトに集まり、連立政権を救った。

ボリシェヴィキは、この破局による「競合脱線」で政権を取ったが、一度も多数派になったことはない。彼らの提唱する財産権の廃止や基幹産業の国有化などの過激な方針を支持する兵士や労働者は少なく、圧倒的多数の農民はそれに反対した。10月革命後に行われた憲法制定会議の選挙でも、最大の得票率40%を集めたのは農村を基盤とするエスエル(社会革命党)で、ボリシェヴィキは22%だったが、レーニンは暴力で反対派を抹殺した。

「マルクス=レーニン主義」を理解している人はボリシェヴィキにもほとんどいなかったが、それはカルトの教義のようなものだから、大した障害にはならなかった。最大の問題は底の抜けたロシアで、誰がその穴を埋めて同質的なロシア人の共同体をつくるかであり、その闘争に勝利したボリシェヴィズムはナチスと同類のポピュリズムだった。

だから「遅れたロシアで革命が成功したのはなぜか」という問いは逆で、それは財産権も議会も法の支配もなかったロシアだから成功したのだ。この偶然がロシアに、そして世界史に刻んだ傷は深く、今も癒えない。またプーチンというポピュリストが登場しているが、それがレーニンよりましかどうかはまだわからない。