あの少女は「慰安婦」なのか

梶井 彩子

あの像が「慰安婦」に見えますか?

「あの像、なんて言うの?」「『慰安婦像』だよ」

「へぇ、じゃあ、あんな少女みたいな慰安婦がいたんだ」「いや、いなかった」

「じゃあなんで『慰安婦像』なの」「……」

報道を聞いて、このような会話を想像した。

政府はこのたび、一般に「慰安婦少女像」や「少女像」と呼ばれている韓国の銅像について、一律に「慰安婦像」と呼ぶことを正式発表した。

菅官房長官はその理由についてこう述べている。

「政府が問題視しているのは慰安婦像だ。そういう意味で、慰安婦像というほうが非常に分かりやすい」

「そのものずばりだからではないか」

これは「少女像」と呼んでいる韓国側に対抗し、国際的に「少女=慰安婦」と印象づける意図を封じることを目的としているようだ。

日本軍が組織的に、朝鮮半島の少女の年齢に当たる女性を「挺身隊」の名のもとに慰安婦にした事実はない。そう考えると、確かに「慰安婦少女像」との名称は愚の骨頂であった。「少女像」とした場合にも、あの銅像が慰安婦を象徴していると知っている人の間では、確かに「少女=慰安婦」としたいがための名称に思える。現に韓国は「少女像」と呼ばないという決定に反発している。

また、韓国(特に市民団体)側がこの先、「あれは慰安婦像ではなく、あくまでも戦火で苦しんだ少女の像」だとして真の意図を覆い隠し、撤去に応じないばかりか国際的に広める方便にもなりかねず、日本としては、今回の名称統一はそれを先んじて封じるものである、と考えられる。菅官房長官も1月の時点で「単なる少女の像であればどこに設置してもいいという印象を与える」と述べている。本当に単なる少女の像ならどこに設置しても日韓間の問題にはなりえないが、慰安婦に関する碑文を伴ったものもあり、実際には慰安婦のイメージがついて回っているところにこの問題のむずかしさがある。

ネットをはじめとする(いわゆる歴史戦を意識する)世論の反応を見ると「政府はよくやった」との反応だ。だが今回の決定は、確かに韓国に対抗したものではあるものの、一方で《日本が正式に「慰安婦の中にはあのような少女もいた」ことを認めてしまう大失態》につながる可能性を排除できないのではないか、と危惧する。

あの少女は慰安婦ではない

「慰安婦はいた。だが(組織的に強制連行された)従軍慰安婦は存在しないばかりか、「挺身隊」の名のもとに慰安婦にされた少女など存在しなかった」というのが日本の主張のはずだ。なのにあの像を「(慰安婦)そのものずばり」だとしてしまうと、「あのような少女の慰安婦がいたことを日本政府も認めている」との印象を与える危険性はないか。

〈この像のような、14歳くらいの少女が「慰安婦」だったのでしょうか?〉

そう聞かれたら、この問題を知る日本人はみなNOと答えるだろう。

〈では「慰安婦」の中にはこのような年頃の少女が含まれていたのでしょうか?〉

これも答えは基本的にはNOだ。様々な論があるが、韓国人学者の間でも、「朝鮮人慰安婦の平均年齢は25-21歳」と主張するものがある。少なくとも「(あの像のような)『少女』が慰安婦の平均的な年恰好ではない」。慰安婦=少女というイメージは、本来無関係の慰安婦と「女子挺身隊」を結びつけた韓国側と朝日新聞による捏造の産物と言える。

〈ではなぜこの少女の姿をした像を日本政府が正式に「慰安婦像」と呼ぶのでしょうか?〉

――この質問に簡潔に答えられるだろうか。

「あれは明らかに『少女の慰安婦』がいたという韓国の思い込みでつくられたものなのですが、それをごまかすために韓国が『少女像』と呼んでまして、それを認めるとどんどん増えちゃうので、こちらとしては『慰安婦像』と呼んで、政治的なものはやめて、と撤去を求めてるんですよ。実際には少女の慰安婦なんていないんですけどね」と常に付記しなけれなばらない。

二択で考えてはいけない

「じゃあ、少女像の方がいいってのか!」という声が聞こえてきそうだが、先に述べた韓国(市民団体)側の意図や経緯から考えて「少女像」も問題がある(当然、「売春婦像」も問題あり)。

そもそも「慰安婦像か、少女像か」のどちらかでなければならないわけではない。「韓国の意図が見え隠れする少女像よりはましだ!」と感じた人は、ではなぜ二択になってしまっているのかを考えてみてほしい。「慰安婦少女像」という名称自体が最悪だったのだ。むしろ「慰安婦か、少女像か」という二択に追い込まれた時点で、相手の術中にはまっていると言って過言ではない。どちらに転んでもいい選択になりえない。二択ではなくそれ以外に実体をよく表す文言を考えなければならない。

「少女像と呼べば、実際に少女が慰安婦をやっていたと思われる」

今回の決定の経緯の中で、このような声が上がったという。続けて「虚偽の少女像」とすべき、と指摘しており(青山繁晴議員)、これならば妥当である。だが決定したのは「慰安婦像」だった。

「明らかに少女にしか見えない像を慰安婦像と呼べば、実際に13、14歳の少女が慰安婦をやらされていたと思われる」

こういう懸念が検討されなかったとは考えづらい。それでもなお、「慰安婦像」とすべき理由があったのだろうか。

「実在しなかった慰安婦」の像

素直に考えて、「少女の慰安婦」など実在していない、と主張しなければならない日本政府が、見るからに少女の姿をした像を「慰安婦像」と呼んでいることは理解し難い。慰安婦ではなかった対象を慰安婦と呼んではいけない。

「慰安婦の中に『少女』はいなかった」と主張すべきだと思っている筆者ですら、このように考えるのだ。「慰安婦には少女も含まれていた」と主張したい人にとって、政府の決定がこういった論理を振りかざすことのできる余地を残したものであることは重く見るべきではないか。

日本側が「慰安婦像」だから大使館や領事館前から撤去すべきなのだ、としたいのは分かる。像だけでなく、碑文なども再三にわたって問題にされてきた。だが撤去されさえすればいいのではない。日本がこれから取り組まなければならないのは「年端もいかぬ少女まで慰安婦にした」「しかも強制連行を行い性奴隷にした」という誤った情報の払拭のはずだ。考えがたいが、もし当面、あの像の撤去だけを考えているとなれば、それは目的を完全に見誤っていると言える。「ああよかった、無理矢理慰安婦にされた(あの像のような)可哀そうな少女などいなかったのだ」と韓国を含む国際社会に知ってもらわなければならないのだ。

いうなれば、あの像は朝日新聞の報道と韓国内の誤ったイメージででっち上げられ、日本へのあてつけとして造られた「非実在慰安婦像」だ。厳密に言えば、「韓国が勝手に、少女と慰安婦のイメージを重ねてしまった『実在しない少女慰安婦』の像」というのが実態を最もよく表している。

万物は言葉によって定義される。でっち上げ像、あてつけ像、捏像でダメならば、「虚偽の少女像」「非実在慰安婦像」、あるいはせめて「慰安婦虚像」とするべきではないか。