「麺」と「めん」の違いからみた日中文化比較

加藤 隆則

中華料理店は世界各国にあり、それぞれ土地の味覚に応じた変化をしている。だから中国に長く住むと、日本の中華料理が恋しくなるという不思議な現象も起きる。マーボードーフも本場の四川人からみれば完全な偽物、「なんちゃって中華」なのだが、「辛くないマーボードーフ」が無性に食べたくなる。逆に飲食の習慣が影響を受けることもある。しばしばお茶を飲むので、日本に帰ってきても冷たい飲み物を求めなくなってしまった。あと変わったのは主食に対する感覚だ。

「主食」については興味深い日中の違いがある。

昨日の12日は、春節の終わりを告げる元宵節(旧暦1月15日)だった。中国では南方を中心に「湯円(タン・ユエン)」を食べる習慣がある。黒ゴマや砂糖などのあんをひと口サイズの餅で包み、ゆでたものだ。地方によっては肉を使った塩味タイプもある。「団円(トァン・ユエン)=円満」の縁起を担ぎ、個人や家族の幸せを託す。

この湯円は主食かどうかという議論がある。私はてっきりデザートのような感覚でいたので、初めて聞いたときは意外だった。だがもち米が原料であれば、堂々と主食の仲間入りができる。主食はでんぷん質を多く含むエネルギー源を指すのだ。食べ物の話は尽きない。

中国人が日本に来て驚く食事の一つは「餃子ライス」である。中国の餃子は北方の代表的な主食。大半はゆでる水餃子で、小麦粉で作った皮はかなり厚い。これを山盛りにして食べる。日本人はその量に圧倒される。

日本の食卓に上がるのは皮の薄い焼き餃子で、おかずとして出される。中国人からすると、餃子ライスは主食+主食のあり得ない取り合わせだ。めんも主食だから、ラーメン+餃子+こめの主食3点はもっとあり得ない。私も現地文化の影響を多分に受け、その違和感を共有しつつある。

中国語の麺(簡体字では「面」=ミェン)は小麦粉で作った食品全般を指し、一般的なメンのほか、餃子、饅頭(マントウ)、面包(パン)までが含まれる。メンの形をしていても、小麦粉で作られていなければ厳密には麺の仲間に入らない。それぞれの気候風土に応じ、同じ原料を使い分けただけなので、形式よりも中身が大事なのだ。

中国のこめは日本と同じ水分の多いジャポニカ米のほか、南方では細長くぱさぱさしたインディカ米もある。こめをすってメン状に伸ばした米粉(ビーフン)や粿条(グオ・ティアオ)もあるが、麺とは言われない。あくまで米食なのだ。私の住む広東省の潮汕地区は粿条の本場で、スープに入れるものから炒めもの、揚げ物まで様々な食べ方がある。日本人にとってのこめと同様、なくてはならない食べ物だ。

一方、日本語でメンといえば「粉を練ったものを細長く切った食品」(『広辞苑』)のことで、ラーメンやそば、うどん、スパゲッティの総称だ。原料よりも形状が重んじられている。冷や麦やそば(蕎麦)の漢字に、かろうじて跡形が残っているだけだ。メン文化そのものが輸入品で、すでにできあがった形に目が向くのはやむを得ない。こめが圧倒的な主役の座を占めているので、それ以外はわき役でしかない。米食の比率は年々減っているようだが、伝統行事ではもちを含め、神事と深く結びついたこめを抜きには考えられない。だから形が全く異なるこめと餃子の組み合わせに違和感がない。

人間関係にも似たようなところがある。初対面の際、日本人はまず名刺を差し出す。学生でさえ自分の名刺を持つことが当然になっている社会は珍しい。相手の名刺を手にすると、目線も合わせず、名刺を押しいただくよう子細に眺め、そこに書かれた組織名やロゴ、肩書や連絡先などをひと通りチェックする。会話はそこから始まる。ここでつまづくと最後までぎこちない場になってしまう。個人の中にではなく、その背景にあるものが重んじられる。

中国ではまず握手をし、相手の目を穴のあくほど見つめながら、強い第一印象を残す言葉をひねり出す。会議でも、宴席の場でも、自分の存在感をアピールする発言を繰り返しながら、相手の発言に耳を傾け、果たして信用のできる人間なのか、もう一度会う価値のある人間なのかをじっくり見定める。殻を脱し、自分をさらけ出すことが、関係を築くための第一歩となる。そのうえで、また会いたいと思う者には名刺を渡すなり、携帯の連絡先を交換するなりが行われる。このステップがなければ、もう忘れられた存在だと覚悟しなければならない。

日本では組織を離れると、音信不通になるケースが多いが、人と人がつながる中国人社会は、むしろそういうときこそお互いが助け合い、関係はむしろ深まる。目に見えない、とらえどころのない組織など信用しない。目の前にいる人を見る。人間関係は一対一がぶつかり合う真剣勝負の場となる。組織に足を突っ込み、タコツボから顔をのぞかせているような関係にはならない。

メンのようにみえるかどうかではなく、それが何でできているのか、果たして腹がいっぱいになるのかを気にする。形式ではなく実質なのだ。

外見や肩書にこだわる日本人は集団主義であり、環境の変化には極めて保守的な反応を示す。島国にあって、外来文化を人との接触からじかに受け入れるのではなく、物や書物を通じて間接的に模倣し、学んできた歴史がある。また、名刺を神聖化する日本人の姿は、こめを神のようにあがめるさまに似ている。不可知の権威を認め、感情的な畏敬の念を抱く。原料を見定める中国人は、見えない神は信じない。理性を重んじ、あくまで目の前の人物の中身にこだわる。

主食の話から大きく脱線したが、いかに外部の環境を認識し、いかに自分の態度を決めるのかという文化においては、相通ずるところがあると感じる。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。