「日本」という国の名前をきちんと説明するためには…

加藤 隆則

日本語を習う外国人から、「日本」は「にほん」なのか「にっぽん」なのかと聞かれ、即答できる日本人は相当の勉強を積まなくてはならない。「大日本帝国(だいにっぽんていこく)」が国名を変更して以来、各方面が議論を重ねてきたが統一見解はない。二つの発音を持つ国名は世界にも例がないし、漢字の読みが多様であることを説明するためには、文字の伝来・受容から始めなくてはならないので、容易な仕事ではない。それを特異だと感じるか、多様なユニークさだととらえるかによって、日本文化に対する認識も大きく分かれる。

645年から始まった大化改新で「日本」が正式な国号となったことは教科書に書いてある。当時は「やまと」とも呼ばれ、それ以前は、「大和」「倭」などの漢字があてられていた。「日本」への固定は、統治者の漢字表記に対するこだわりがある。「日」は唐代に伝わった漢音では「ジツ」、それ以前の呉音では「ニチ」と読まれる。「ニチ」にならったのは、呉音が日本人により親しみやすい語感を持っていたことを意味する。

日本が「日の本(もと)」、太陽の昇る場所を意味することはだれでもわかる。視点は日本の西側に置かれている。中国から見ているのだ。統治者のこだわりとはここにある。すぐに思い浮かぶのは、607年(推古15年)、聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせた手紙の文言である。

「日出処天子至書日没処天子無恙云々」(日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや・・・)

隋の煬帝は、中国の皇帝にしか使われない「天子」を、東方の小さな島国の当主が名乗ったことに対し激怒する。だが、聖徳太子は太陽の運行を用い、朝貢関係ではない対等の関係を築くことにこだわったのだ。「日出ずる」日本は、「日没する」中国がなければあり得ない。つまり「日本」という国号は、隣にあった大国の中国によってもたらされたものだということになる。

日本に文字のなかった時代、中国が与えた名が「倭」である。蔑視が含まれているというが、それほどとは思えない。周辺の少数民族に対しては「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と、けものを連想させる言葉が与えられているが、「倭」は「にんべん」である。白川静『字統』によれば、「委は稲魂(いなだま)を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」とある。米文化がこんなところにも顔を出してと思えば、実に興味深い。

実際、3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』には稲作や養蚕を含め、日本の風俗について詳細な記載がある。見たものをそのまま伝えようとする努力が感じられる。

「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年」(集まりの際は、父子・男女の区別がなく、人々は酒を好む。長老に対しては、手を打って、うずくまり、拝むようにして敬意を示す。長寿で、百歳や九十、八十歳の者もいる)

また、「女は慎み深く、嫉妬しない。盗みはなく、争い事も少ない」との記述もある。

その後、漢字が伝わり、「倭」が「日本」を名乗るようになると、中国はそれをすんなり受け入れた。8世紀半ばのこと。遣唐使としてわたり、そのまま長安で官吏として要職にあった日本の阿倍仲麻呂が帰国することになった。交遊のあった詩人の李白は詩を送り、「日本の晁卿(ちょうけい=仲麻呂の中国名)」 帝都を辞す」と詠んでいる。

西安の公園には、李白の詩を刻んだ阿倍仲麻呂の碑が建っている。

同じように「中国」もまた、どんなに厄介ではあっても、日本という隣人がいなければ今の姿はないことを、次回は書いてみたい。相互に意識しあい、学びあい、影響を与えあい、ともに歩んできた関係であることがよくわかる。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。