1世紀前の作品でも、なお共感できること :『船出』 --- 平尾 あえる

寄稿

Wikipediaより

「そう、辛い人生そのものよ」ソーンベリ夫人は相槌を打つ。「未婚の女性で―自分で生計を立てる―それが一番辛い人生だわ」

会社の同僚が休憩時間に本を読んでいた。「何を読んでいるの?」と訊ねると20世紀を代表する英作家ヴァージニア・ウルフの小説だった。同僚は大学生のころは英米文学を専攻していて、わたしもD・H・ロレンスを研究している教員の研究室に出入りして文学の話ばかりしていたけれども、ウルフを読んだことがなかった。「面白いですよ」と同僚の彼女は言う。薦められた本は読んでしまう性質なので読んでみることにした。

ヴァージニア・ウルフ
岩波書店
2017-01-18

 

1915年に出版された『船出』はウルフの処女作だ。あらすじは、音楽だけの勉強をしていた24歳の女性レイチェルが父の船舶で南米へ向かうところからはじまる。船出をしたあとに繰り広げられるのは、はじめての男女の関係、音楽とは異なる文学や歴史の対話、そして人間の感情や理性にかかわることであった。レイチェルは戸惑いながら、新たな経験を通して自らの生き方を見つめ、成長をしていくのだった。

本書では上流階級の対話がたびたび出てくるが、核となるのは女性の視点による言葉や独白。彼女たちの言葉には、当時の上流階級の女性たちの思いが、場面ごとにちりばめられている。時折、当時の時代状況のなかで規範的な生き方に対する、怒り、悲しみ、諦め、皮肉が言葉のなかに込められて、強い思いで発せられるカタルシスは、その現実に抗おうとも自らの立場を捨ててまでは突き進むことができない落胆へとやがて色あせていくようにみえるのはわたしだけだろうか。

ところで、ヴァージニア・ウルフは後年に『自分ひとりの部屋』という講演録をまとめたエッセーを書いていることを知った。彼女は学生たちに説く。女性が小説を書くためには「自分ひとりの部屋」と「年収500ポンド」(現在でいえば価値でいえば数百万円)が必要だと。さらに、ウルフはもしシェイクスピアの才能が女性に宿っていたらどうなっただろうかと夢想する。

そのような才能を宿し女優になりたいと思っていても、男性からあしらわれ売春婦であれば大丈夫だと暗にほのめかされ、その後、望まない妊娠をしてしまい自ら命を絶ってしまうような人生。もちろん、シェイクスピアの生きた時代にそのような悲劇が起こることはない。なぜならラテン語学校に通ったシェイクスピアとは違い、女性は結婚という仕事だけに従事させられたり、さまざまな偏見によって妨害されたりして、文学への思いは封じこめられてしまうからだ、とウルフは説く。

もちろん、ウルフの言うようなことが現在に起きることはないと思うのだが、21世紀の日本の住むわたしたちが、この本から共感できることとは一体何であろうか。作中に出てくるありとあらゆる教養に満ちた男女の会話だろうか。規範的な生き方に対する抵抗だろうか。自らの立場を演ずるなかで、あるいは新たな価値に触れるなかで揺れ動く心から発せられる独白だろうか。それはいつの時代も人として生み出される当然の感情で、時代によって制度やテクノロジーがたとえ移り変わったとしても、抑圧された状況に対する感情の発露はいまでも起こりうることではないだろうか。

ウルフは作中で、揺れ動く心から発せられる言葉の対話によって、逆に共感をしようとする作用が阻害されてしまうことを男女の対話の衝突によって描きだしている。

「人はなぜ正直になろうとしないんだ?」部屋への階段を昇りながら彼は呟いた。なぜ異なった人たちの間の関係は、こうも不充分で、断片的で、危なっかしいものなのか? なぜ言葉は極めて危険なもので、その作用により、他人の心情を理解し共感しようとする本能が、結局は自分の心情を入念に検査し、さらにはおそらく押し潰す働きをしてしまうのだろうか?

言葉を重ねれば重ねるほど分かり合えないことに気づくのはとても悲しいことだけれども。それでも、感情から発せられる無知や無能を乗り越えることができるのも言葉、理性的な言葉なのだと思う。薦めてくれた同僚ははたしてわたしの思いを共感してくれるだろうか。

平尾あえる 会社員