現代人は「資本論」を読破できるか

長谷川 良

「資本論」を書いたカール・マルクス((1818~1883)の友人フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895年)宛の書簡(1862年)の中に面白い一文を見つけた。

Ich dehne diesen Band(des Kapitals) mehr aus,da die deutschen Hunde den Wert der Buecher nach dem Kubikinhalt schaetzen
「僕は『資本論』をもっと長々と書こうと思っている。だって、ドイツ人はたくさん書いてあるほどいい本だと思うから」とエンゲルスに不満を吐露している。20世紀の進歩的知識人に大きな影響を与えた「資本論」(全3部)がなぜ膨大な作品となったか、少し理解できるわけだ(「資本論」2部、3部はマルクス死後、エンゲルスによって編集、刊行された)。

▲カール・マルクスの「資本論」第1部、1867年初版

ところで、現代人はどれほど長い小説や専門書(例「資本論」)を読むことが出来るだろうか、と考えた。自身が関わっている分野や仕事の専門書は長短に関係なく読まざるを得ないが、趣味で読む小説や娯楽本の場合は事情が違う。

世界最大のベストセラーといわれる聖書はかなり分厚い。信仰があっても新・旧約聖書(1326頁)を最後まで読むためにはかなりの決意が必要となる。新約聖書(409頁)の場合、多くの人は「イエスの系図」を記述した「マタイによる福音書」第1章の入り口で疲れを覚え、それ以上進む意欲を失う。「イエスの系図」後も継続して読みたいと思う読者は既に神に召命された人だろう。

聖書に負けないロングベストセラーは「星の王子さま」(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著)だ。これは短い。内容も読みやすいが、理解に時間がかかる。(年を重ね、子供のような心を失うほど、その著者の意図を正しくくみ取ることが出来なくなる)

最近では、村上春樹氏の新長編小説「騎士団長殺し」(新潮社)は2部構成だ。かなり長い。しかし、世界の春樹ファンはそんなことは関係ないだろう。学校や仕事を終えた後、本を開き、ゆっくりと読みだす。そして喜びと充実感が生まれてくれば、たとえ春樹ファンでなくても読み通せるかもしれない。

時代はマルクスの生きていた19世紀ではないから、本の価値をその本の重量や長さで評価する出版社や読者はいないだろう。むしろ、読みやすく、それでいて情報が溢れている本が喜ばれるはずだ。その一方、トルストイやドストエフスキーの長編小説は今なお多くの読者を引きつけているという事実は、当然のことだが、その本の内容が素晴らしいからだろう。

当方は2年前の夏、右目が網膜剥離になって以来、長期間、本を読むことができなくなった。1時間過ぎると目が疲れてくる。だから最近では、書店でボリュームのある本を見つければ、著者に敬意を払いながら通り過ぎることにしている。

マルクスの「労働価値説」をご存じだろう。商品の価値はその商品の生産に費やされる社会的に平均的な労働量によって決まるという内容だ。旧ソ連・東欧共産諸国時代、「ノルマ」という言葉がよく使われたが、その根底にはマルクスの「労働価値説」が影響している。

マルクスは「資本論」を価値ある学術書とするために長い思考(労働時間)を費やし、(ドイツ人が評価する)ボリュームのある論文を書き上げていった。彼は別のところで「間違いが指摘されたとしても自分の考えが正しいと弁明できるように書いているよ」と友人のエンゲルスに告げている。20世紀の進歩的知識人の心を捉えたマルクス主義を理解するためには、「人間マルクス」を先ず知ることが重要だろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年5月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。