日本の「リーマン・ショック」は大蔵省が起こした

池田 信夫

長銀の頭取だった大野木克信氏が死去した。朝日新聞の原真人編集委員は「金融危機の批判を一身に受け、スケープゴートの役目を担わされた」と書いているが、私も同じような感慨を抱かざるをえない。

90年代に日本の金融で何が起こったかは、いまだに十分解明されていない。よく誤解されているが、危機は1990年に始まったわけではない。たしかに日経平均は90年から下がり始めたが、地価はまだ上がっていた。大蔵省は90年3月に不動産融資規制をし、日銀の公定歩合は90年に6%まで上がった。

企業倒産が増えて失業率が倍増したのは1998年で、自殺者が35%も増えた。次の図は、2012年の白川日銀総裁の講演からとったものだが、98年の初頭から大規模な金融危機が発生し、GDPも物価も大幅なマイナスを記録した。日本の1997年11月がアメリカの2008年9月になったのだ。


その原因は、山一証券の「自主廃業」だった。当時の山一は資産超過であり、その直前の三洋証券の倒産のときは会社更生法が適用されたので、最悪の場合でも山一も同じように破綻処理されると、社員だれもが思っていた。大蔵省証券局も11月初めまで救済の意思を示していた。

ところが11月19日に山一の野沢社長が大蔵省の長野証券局長を訪問したとき、長野氏は「感情を交えずに淡々と言います。検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい。金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない」と告げた。このときは2600億円にのぼる簿外債務の「飛ばし」が当局の怒りにふれたといわれたが、会社を消滅させて1万人以上の雇用を失わせるしかなかったのだろうか。

長野局長は11月になるまで「飛ばし」を聞いていなかったというが、山一は前任の松野証券局長には、簿外債務が300億円ぐらいの段階で飛ばしていることは報告し、了解を得ていた。簿外債務はオフバランスであり、連結の財務諸表に記載しないこと自体は違法ではなかった。更生手続きや資金繰りについては、日銀特融で時間を稼げる(実際そうなった)。

いずれも、四大証券の一角を消滅させる根拠としては弱い。これは長野氏の「リーマン・ショック」だったのではないか、というのが私の印象だ。彼は41年入省組のトップクラスで、事務次官の候補とされていた。非常に頭の切れる人物で、私の担当したNHKの討論番組でも「日本版ビッグバンの中心は証券局だ」と自負し、「護送船団行政に訣別しなければならない」といった。

彼は野沢社長に「市場が無理な経営をとがめるのはビッグバンには望ましい」と言ったと伝えられるが、これを機に護送船団行政をやめ、つぶすべき金融機関はつぶすという方針に転換するつもりだったのではないか。2008年9月15日にポールソン財務長官が「リーマンを救うつもりはない」と明言したのと同じだ。

しかし山一のサプライズで、連鎖的に信用不安が拡大した。もし長野氏が拓銀・山一に続いて問題のある大手金融機関を整然と破綻処理し、90年代の「竹中平蔵」になっていれば、一挙に同期のトップになっただろうが、このあと長野氏は1998年に接待スキャンダルで大蔵省を退官した。

山一の教訓は、サプライズが神話崩壊のパニックを生むということだ。「大蔵省は大手金融機関をつぶさない」という「銀行神話」を多くの人が神話を信じていればいるほど、崩壊のショックは大きい。この結果、インターバンクの資金がとれなくなって多くの銀行の経営が行き詰まり、長銀・日債銀が国有化された。

いま多くの地方銀行が信じているのは、「国債は日銀が買い支えているので値下がりしない」という神話だが、これが崩壊すると同じようなパニックが起こる可能性がある。われわれは90年代の不良債権の教訓を十分学んでいない。長銀をスケープゴートにしても、何も解決しないのだ。