色眼鏡をかけてものを見るという。偏見や先入見をもって対象に接する態度を批判する表現だが、特定の文化のもとで生まれ、育った人間がまったく眼鏡をかけずに外界と接することはできない。まず言葉の体系がそうだ。われわれは、文化や歴史が濃厚に反映される言葉によって思考する。だから、言葉の持つ限界から逃れることはできない。問題は、自分が色眼鏡をかけていることを自覚し、さらにどんな色なのかを常に意識できるかどうか、である。
色眼鏡は、自身の価値観と置き換えてもよい。価値観は絶えず自らを省み、包容力をもって他の価値観を受け入れることで鍛えられる。
「中国」や「日本」という言葉がすでに一定のイメージを備えている。それはあらゆる国、地域で異なる。しかも、中国で「日本」がどのようなイメージを持たれているか。日本で「中国」がどのようなイメージを持たれているか。そのイメージの描き方も、日中でそれぞれズレが生じる。世論調査はしばしばそのズレを数字で示してくれるように思えるが、単純化することで、本来、存在していないズレをあるかのように見せ、強化している世論操作の危険もある。
日中の世論調査では必ず「現在の日中関係はよいか、悪いか」という問いかけがある。回答者のほとんどは、おそらく日中関係について考えたことはない。考えたことのないことに、無理やり二者択一の態度を迫る。問う方も、問われる方も、答えるべき実態が存在していると錯覚する。だから問うこと、問われることを当然だと思っている。「この質問、おかしいんじゃない」と回答を拒否するケースはまれだ。引き出される答えは、色眼鏡以外の何物でもない。こうして、そもそも存在していない世論はつくられる。
質問をする側でさえ、では「日中関係とは何を指しているのか?」と尋ねられれば答えに窮する。こんなあやふやなデータを、メディアはなんの疑問もはさむことなく、それこそ色眼鏡をかけたまま垂れ流す。私自身、日中共同世論調査に深くかかわった経験がある。その反省をこめて、「世論」の中身には懐疑的にならざるを得ない。世論を恣意的に乱用し、風向きを見ながら発言するのが、いわゆる評論家、専門家とメディアでもてはやされる人々だ。大学教授、研究員などのもっともらしい肩書をもって現れるので、なお始末が悪い。
尖閣諸島の問題で日中関係が危機的状況に陥った際、私は『日中関係は本当に最悪なのか 政治対立化の経済発信力』(2014年、日本僑報社)を編集した。中国には2万社を超える日系企業が存在し、1000万人の雇用を創出している。「良い悪い」で測るのではなく、この現実からスタートし、タイトルが示す通りの問題提起を日本に投げかけた。中国でのビジネスにかかわる日中33人に現場からの声を書いてもらった。当時、日中関係は「最悪」と言われたが、経済の現場ではピンと来なかった。世界最大の人口を抱える一大消費地・中国で、日々、市場と向き合い、熾烈な競争にさらされているのが実態なのだ。
私は同書の序文にこう書いた。
「日本では一面的なデータの分析や特定の事象を取り上げて、『中国撤退論』や「『中国崩壊論』、さらに『中国脅威論』を語る現象がしばし見受けられる。メディアが伝える中国は、最大公約数にとらわれるあまり、体制論や制度論に偏り、個々の事象は切り捨てられることが多い。本書では、各種のデータを冷静に読み解き、幅広い現場の声を拾い上げることで、より正確な実像に迫ることを試みている。それぞれは点であっても、深く掘り下げることによって、相互を結びつける地下鉱脈を探し当てられる。面を上からなでるよりも、深い点をつなぎ合わせて結んだ面の方が、価値のある情報を与えてくれるだろう」
残念ながら、こうした「世論」に逆らう本は売れないし、読まれない。もっと簡単で、深く考えずに済み、感覚で一気に読み通すことのできる本が受ける。書店に並んでいる本のタイトルを見れば、色眼鏡の効果は明らかだ。
ではもっと根源的な問いに立ち返る。そもそも「中国」とは何なのか?
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。