2005年4月に発生の、JR福知山線塚口・尼崎駅間の事故の責任を問うて強制起訴されていた、JR西日本の歴代3社長、井手氏、南谷氏、垣内氏の裁判がすべて終結した。
6月14日の新聞報道などの通り、3氏とも無罪であった。
法理からすれば、これは当然のことだったろうとわたしは思う。事故予見性を広義に解釈した起訴自体も、果たして妥当だったのか、しばしば問われているほどだ。だが法律を離れた見地から、この3人に責任があったのか、それともなかったのか。これはまだ決着がついているとは言い難い。今後のJR西日本の企業としての健全性、また、日本の交通における安全をより確かにするためには、これは積極的に解明すべき問題で、むしろ裁判が済んだあとの、これからこそが大切なのである。
その2005年の事故の当日のことはいまでもよく覚えている。(またその直前に、大阪福島の踏切で、遮断機が開放のまま列車が通過したということがあったが、これもまた忘れてはいない。)当日は、事故直後の午前から、流れてくるネットのニュースをずっと見ていた。更新のたび、どんどん被害が大きくなっていった。そしてJR西日本が抱える問題もまた一斉に噴きだしたのである。
労務管理の問題、広報の問題(JR西日本は独自の広告代理店を持っている)、現場路線のカーブの半径問題、過密なダイヤ、幹部間における人事対立。しかしわたしはこれに加えて、それ以前の事故の対応が、この事故にも影響しているように感じていた。
JR西日本は、ほとんどそっくりの構造の事故と、それまでに2度は関係していたのである。それはヒューマンエラーの悪しき結晶に見えるものだった。
まず一つ目は1991年の信楽高原鐵道の事故である。これはJR西日本の線路上で起こったのではなく、信楽に乗り入れたJRの車両と運転士が関係して発生したものである。主因は信楽にあったが、この両社の関係は、人的にいっても、運行の面でも、信号の設置においても、ほとんどJR西日本が主、信楽が従といってもよいものだっただけに、これをJR西日本の事故として考察することに、わたしは躊躇しない。
(参考ファイル)
「信楽高原鐵道での列車正面衝突」
www.sozogaku.com/fkd/hf/HA0000607.pdf
二つ目は2002年のJR西日本の東海道線塚本・尼崎間の事故である。この日は夕刻になって線路に侵入事件があり、ケガ人が発生していた。そのケガ人を救急士が収用しようとしている最中に、列車が徐行せずにここに差しかかり、人命が損なわれたのだった。
(参考ファイル)
「JR東海道線で救急隊員轢死」
http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CZ0200724.html
そして三つ目が2005年の福知山線である。
この事故の原因と経過には共通点があり、それは
・ダイヤの混乱が最初に発生し
・重圧のために無理なダイヤ回復が計られ
・連絡の混乱が放置されたまま
・見込みによる運転が事故を起こす
という構造。やや具体的に説明すると、
・信楽の事故では、当日に出張してきた運輸省関係者を貴生川で待たせており
・東海道線の事故では、その数時間前まで、近接区間でのトラブルのため、それにともなう運転見合わせと、回復後の大幅なダイヤの乱れが生じており
・福知山線の事故では、ダイヤの欠陥による尼崎駅での乗り継ぎ接続に、運転士が慢性的に追われていた
このような遅延要因に
・信楽では、対向列車の単線区間への進入を阻止すべく、信楽の社員が車で現地に急行中であり
・東海道線ではケガ人収容の区間を最徐行で通過した列車からの情報が、後続の列車に正しく伝わらず
・福知山線では、列車指令が無線を通じて、運転中の運転士に、直前に発生したミスの内容を、ずっと問い続ける
といった状況が発生していた。
このようにJR西日本は、精神的に追い詰められた担当者が何にどう反応して動くのか、という、過去の類例を学ぶ機会はあったのである。ところがそれを貴重な経験とするどころか、逆に人事面では理不尽な締め付けを強めていたほどであった。それがこの事故を契機に鮮明になったのは、よく知られるとおりである。
もちろん自己の負の面を学びさえすれば、次の事故を予防できるというものではない。しかしJR西日本はそもそも信楽の事故を、自身の問題と捉えていなかったのである。これは決定的だった。
(参考ファイル)に示した「信楽高原鐵道での列車正面衝突」や「JR東海道線で救急隊員轢死」には、事故前段の状況である「監督官庁の関係者が乗るはずの列車が遅れている」や「混乱していたダイヤがやっと回復したばかり」といった要素は説明されてはいないのだが、その前者に見える
JR西日本が方向優先てこを設置したことを警察に隠したり、事故以前の何回かの赤信号出発の問題を信楽高原鐵道に指導しなかったり、という責任逃れをやり、民事の裁判で負けて責任を認めた。この事故の責任逃れの体質が、小さな危険を大きくなる前に摘み取とることをしないようになり、JR西日本福知山線の事故の遠因となったのかもしれない。
という指摘は重要である。
しかし新聞報道でも明らかになっていたが、JR西日本が、他社である信楽の信号に、方向優先テコを設置していた事実の組織的な隠蔽は、上記のようになまなかなものではなく、きわめて悪質なものであった。この捜査に当たっていたのはもちろん滋賀県警だが、事故に遭った車両には京阪神方面からの乗客もすくなくはない。またJR西日本の本社は大阪である。そういったこともあってだろうが、近畿圏の警察は、JR西日本の組織的な捜査の壁に挑んでいた滋賀県警の持つ情報を、かなり共有していたフシがある。
組織的な締付けによる、不都合な事実の隠蔽と、責任からの逃避の経験は、根深いものであった。2005年に福知山線で事故が発生した際、JR西日本は、事故車内に閉じ込められたケガ人の救出もままならない当日の内に、独自の調査として、置石が原因であると発表して責任を転嫁しようとした。近傍のレール上に破砕痕があったのは確かなのだが、これは脱線によってできたものであって、この説自体は虚妄であった。そのため、その後JR西日本への指弾は容易にやまなかった。すぐにも信楽の事故とその後の対応が思い出された。井手氏、南谷氏、垣内氏の3氏は、そういった組織を強化し、また維持したのだという不名誉を負うほかない。わたしはそう思うものだ。
兵庫県警は、攻撃的にも見える捜査を続けたし、あきらかに幹部の起訴も目指していた。その背景には、滋賀県警の無念を引き継いだ面もまたあったのではないだろうか。信楽の事故の未消化は、おそらく捜査にも影響していた。兵庫県警の粘り強い捜査が、結果として3人の元社長の強制起訴の下地を作ったのである。
ではJR西日本はその後どうなったか。わたしはかなりの変化があったと見ている。それは以前には想像もつかなかったことが起こっているからである。
一例は2014年10月13日の午後のことである。この日は台風の通過が予報されていたのだが、その前日の12日の内にも、JR西日本は関係路線の運休を決定して広報し、翌日それを実行に移した。幸いなことに台風の被害は大きいものではなく、そのため運休の是非も問われたし、運休当日の13日は祝日の月曜でもあったから、休日の運行よりも、翌平日の朝の通勤時間帯の運行確保がまず優先されたという事情もあったのだろう。しかしこれは、非難を浴びても安全を重んじる取り組みであったと思う。
あともう一つは、かなり話題にもなったものだが、JR西日本では2016年4月以降、それが人為的なものであっても、故意ではないミス、エラーに関しては、原則として懲戒の対象としない、という決定である。
これはなによりミス、エラーの報告がないがしろになることを嫌ってのことであるはずで、この措置があってもなお隠蔽があった場合にまで懲戒を免除することはないだろうが、まったく果敢な決定だと思う。台風による運休の事前決定もそうであったように、この転換も試みである。負の側面が出ないとは限らない。しかしこういった決定は、社内にも社外にも、その社の方針を、明瞭に伝えずにはおかない。
こういったことも3氏の裁判の途中で起こったことである。その裁判がJR西日本の幹部の念頭にいつもあって、なんとしてでも事故を減らす企業体質へ移行しようという、希求の原動力となっていたのだとしたら、やや強引に見えた問責の起訴も、控訴も、上告も、やはり意味があったのだと言わなければならないだろう。
2017/06/18 若井 朝彦
JR西・元3社長の裁判の後で