購読者に恥をかかせる朝日新聞

梶井 彩子

国を歪ませる一部メディア

7月10日に行われた加計問題を巡る閉会中審査で、翌日の新聞で朝日新聞は加戸前愛媛県知事の「我慢してきた岩盤に国家戦略特区が穴を開けた。ゆがめられていた行政が正されたというのが正しい」との発言を報じなかった(毎日新聞も詳報ではこの発言に触れている)。朝日的にはこの発言は「報じる価値なし」だったのだろうか。もちろんこの一言で加計問題の疑問がすべて解消されるわけではないが、隠すから余計にこの発言が核心だったのではという評価まで出てきてしまう。

安倍政権をこの問題で庇いたいとは全く思わないが、モリカケ問題で政権を「お友達ばかり優遇してフェアじゃない」と批判している新聞が、自らの紙面でアンフェアとみられるようなことをやってはいけない。

こうした姿勢は、世論に「全否定で来るものには全肯定で対抗するしかない」とか、「アンフェアにフェアでは対抗しきれない」という過ちを引き起こさせる。そうでなくとも「横柄な政権側に対して前川さんは正義の人『っぽい』」とか「前川は出会い系バー男だけど加戸さんは誠実『そう』」という印象論どうしの主張の対立が横行している。

第一次安倍政権とメディアの対決は、メディアの勝利だった。だからこそ、反メディア(特に反朝日新聞)派の人にとって、安倍晋三は「悲劇のヒーロー」になった面がある。今また、2月の森友問題から始まって、「加憲」発言で一段ギアを入れ替えたメディアの計5カ月にわたる攻勢によって支持を失っていく安倍総理を、支持者たちは「メディアに殺させるな!」と熱烈支持する姿勢を見せている。

こうなってくると、「倒閣など考えてもいないが、安倍政権には注文を付けたい」「安倍にやめてほしいとは思わないけれど、加計問題って政府側もすっきりしないよね」くらいのスタンスの人間は立つ瀬がない。そう言われても批判すべきはしなければならないが、安倍政権への部分的批判さえメディア擁護のように受け取られかねないし、「倒閣か安倍護持か」の両者の圧力にかき消されかねない。これを言論状況がゆがんでいると言わずしてなんとするか。言論のゆがみは、ひいては政治や国そのものの在りようをゆがませる。

購読者に不誠実では?

それだけではない。報道が偏っていることで非常に不毛な事態に至っている。

偏った状態でメディアが報じる→それに対する両極端なツイッターの論調が流れ込んでくる→評価が違いすぎて事実が全く分からない→自分で国会答弁の全文起こしや無編集動画を確かめて判断する――。特にモリカケ問題はこの繰り返しだ。紙面の許す限りであっても、最初から事実をまんべんなく報じてくれれば新聞を読むだけでざっくりと理解できるのに、二度手間、三度手間になる。「メディアで報じられる→自分で判断する」で終わることが、余計な回り道を強いられる。

私はメディア問題に興味があるから時にこのような確認に時間を割くこともあるが、これを全国民に強いるのは無理だろう。だからこそ、調べればすぐわかるようなことも隠すのだろうが、今日日カネを払って新聞を読んでくれている貴重な購読者に対して実に不誠実だ。

実際、記者の方に聞いてみたいが、自社の新聞だけ読んでこの問題の事実の全体像を掴めるだろうか。朝日のみ購読している読者は、他紙を読んでいる人から「加戸さんがこう言ってたよ」と言われても、「え、そうだったの! ウチの新聞には出てなかったぞ」ということになる(もちろん他の新聞でもそういうことは起こり得る)。読者が判断を誤り、恥をかくことになりかねないが、それでいいのか。

新聞社は「国民の声」を聞いているか?

7月13日の朝日新聞では、〈フェイクニュースの台頭〉と題する朝日新聞の「報道と人権委員会」の記事で、委員の一人がこう述べている。

「ネット上では繰り返し、それも特定のメディアを批判する人たちが存在する。だが、いつか我が国の市民層が、メディア情報の真偽を見分ける力を備えた市民として再構築される中で、淘汰されると思う」

批判されている「特定のメディア」が朝日新聞であることは自明だが、なぜそうなるかの理由が分かっていないとしたら驚きだ。朝日からすれば、「権力が暴走しているのだから、手段や表現などを選んではいられない」というかもしれない。だから〈FBで昭恵氏「いいね!」〉なんて記事を紙面に載せるのだろうが、結局はそれが「ネット上での特定のメディアへの批判」を引き起こしている(批判の真意の多くは「安倍(夫人)擁護」ではなく「くだらない記事を書くな」という呆れからくるものだ)。また、嘘を書くだけがフェイクニュースではなく、「書かない」ことで「代替的真実」を読者に印象づけるのもフェイクニュースだろう。

このままでは、「特定の新聞だけしか読んでいない人ほど事実の全体像を把握できず、メディア情報の真偽を見分けられず淘汰される」ことになる。ネットを使わない(使えない)、あるいは時間的・経済的な制約で一紙読むのがやっとの読者をそのような末路へ導いていいのか。

また、大多数がネットを使う世代に入れ替われば、(特に紙の)朝日新聞こそが淘汰されかねない。確かに政権や政治家にも問題はあろう。秋葉原での、「安倍辞めろ」の声に対する安倍総理の「こんな人たち」発言は不用意で「総理、なんか感じ悪いよね」感を演出したし、「『こんな人たち』だって国民だ」と批判されても仕方がないだろう。一方で、メディア側はツイッターなどに寄せられる批判者の声を、「ネトウヨ風情が」「ネット民が」と軽視している。そのことは「ネット上」と「市民」を区別する先の朝日新聞記事からも読み取れる。確かに批判しているのはネトウヨ・ネット民だが、両者ともに国民だ。

もちろん、過激な表現で書きたてる迷惑なアカウントもあるが、「国民の声を聞け」と政権に抗議する朝日新聞に所属する記者アカウントが、国民の声を聞かず、ブロックまでしているのはどうなのか。

(天声人語を担当していた冨永格・朝日新聞報道局員に直接何か言った覚えは一度くらいしかないが、私もいつの間にかブロックされていた…)

ある時は「記者は国民の代表だ」と言いながら、一方では自身への批判に耳をふさぐ。そんな情報さえ可視化されてしまう状況で、「国民の声を聞け」とはよくいったものだ。社会の趨勢に後れを取っているのではないかとすら思う。

政権の問題をきちんと批判してほしいからこそ、「朝日の記事はフェイクニュース」などと言わせる隙を見せないでほしい。頼むからもっとしっかりしてほしい。