政治家の「失言」が物語る公共の消失

加藤 隆則

江崎鐵磨氏公式サイトより(編集部)

内閣改造後、だれもがスキャンダルの発覚を予測する。今回、メディアが取り上げたのは、江崎沖縄・北方相の「答弁書朗読」発言だった。閣僚の言動をチェックするのはメディアの重要な責務だが、ただ発言の不適切さをあげつらうだけなら、私にはどうでもいいニュースにしか思えない。日本の世論は大臣にそれほど高い能力を求めているわけではない。大した期待もしていない。政治家の資質や行政府の長として責務を度外視すれば、無知を自認している正直な人物なのだから、官僚に従うという姿勢はむしろ正しいようにも思う。わからないのに、わかったような顔をして、行政を混乱させる大臣より、よほどましではないか。

不祥事による支持率低迷をリセットするための内閣改造なのだから、これ以上の失策を避けようとする消極的な発想が根底にある。だからこうした大臣発言が出るのも無理はない。「仕事人内閣」というのはただの宣伝文句なので、それを真に受けて論じても意味はない。リセットによって隠ぺいされる問題をしつこく問い続けることこそ、報道機関の責務だと思う。メディアは自分たちのロジックを持たなくてはならない。

過去には歴史問題などを巡って大臣の発言が辞任にまで至ったケースがある。メディアはしばしば「失言」とレッテルを貼るが、非常に違和感がある。言ってはならないことを言うのが失言である。つまり本音を言ったのだ。だから問題は発言のされ方ではなく、内容そのものにある。江崎氏の発言を個人や一内閣のものとしてではなく、政治の現状を象徴する言葉として受け止める視点が重要だ。

なぜそのような発言が生じるのか。根幹を問いたださなければ、われわれは事件の教訓を得られない。前言撤回や苦し紛れの釈明でごまかしてきたことが、政治へのしらけを生んだ一因だ。社会は前に進まないどころか、未分解の毒が沈殿し、どんどんむしばまれていく。言葉が意味を持たなくなり、力を失っていくことの弊害は何よりも大きい。

菅官房長官が記者会見で、江崎氏から「私的な場でのオフレコの発言だ」と電話連絡を受け、「江崎大臣は、私的な場での話が公になるとは思っていなかったのではないか」と注意したことを明らかにした。まったく意味不明なやり取りだ。「私的」は免罪符なのか。公務について語ったことが、なぜ「私的」になるのか。公にならなければよいという理屈は、公の場ではウソをつき続けろという趣旨なのか。なぜメディアはこうしたことを追及しないのか。

明治期以降に輸入された自由、民主主義は言い古された言葉のような気がするが、輸出元である欧米ではたえずその中身が問い直されている。日本は完成品を輸入し、戦後は米国流にモデルチェンジをしたが、その後、自分たちの手でメンテナンスすることを忘れてはいないか。憲法だけで民主主義と平和が守れると思うのは、完成品の発想でしかない。。懐疑精神がなければ、言葉は意味を失い、空洞化するしかない。メディアには規範化の名のもとに、型にはまった用語や論が氾濫し、思考の空間まで狭められている。

アリストテレスが「人間は政治的動物である」と述べたように、政治を公共にかかわることを議論するあらゆる活動だと定義すれば、万人が関心を持ち、参画すべき場である。人々はテーブルを囲み、言葉によって考えを伝え、意見を戦わせ、公の論を形成していく。現代は職業政治家がその場を占拠していると錯覚し、軽薄な言葉によって、言葉そのものを枯死に至らしめ、公共の場を私的に侵食している。言葉で表現されない忖度が横行し、公私の見境がなくなるのは必然だ。

ユダヤ系ドイツ人の政治哲学者、ハンナ・アーレントは、第二次世界大戦でナチスからの迫害を体験し、アメリカに亡命後、『人間の条件』を執筆した。彼女は、社会が公的領域を失えば、全体主義に至ることを警告した。みなが平等にかかわり、個性を発揮しながら多様性が実を結ぶ、それが公的領域だ。社会が私的領域に占められれば、不均衡で、言葉ではなく暴力が支配する世界が現れる。

日本は戦前、天皇制という矛盾をはらんだ「公」が私物化されることによって、公的領域を喪失し、破滅への道を進んだ。この反省なくしては、戦後70年の総括など絵に描いた餅でしかない。天皇の生前退位をめぐる議論は、メディアによる世論操作を含め、忖度から始まったことに、もう少しデリケートであってもよい。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。