なぜ「希望(の党)」は敗北したか

このコラムの見出しの「希望」は、厳密にいえば、小池百合子東京都知事が総選挙直前に急きょ結成し、「自民党」の対抗勢力にまで押し上げようとした新党「希望の党」の話ではなく、党名の「希望」について当方の考えを述べたものだ。少々、独断と偏見があるかもしれないが、当方の呟きにお付き合いしていただければ幸いだ。

▲「希望の党」総決起大会と小池都知事(2017年10月9日、「希望の党」公式サイトから)

小池都知事の新党が結成当初の勢いを失った主因は日本のメディアが既に指摘しているように、「民進党」議員の「希望の党」合流の際の「排除」発言にあったことは間違いないだろう。「小池都知事は自分を何と思っているのか」、「傲慢な発言だ」と受け取られたことが、「民進党」議員だけではなく、有権者の国民にも強い反発を生み出したことは否めない。
小池都知事は自身の発言が想定外の受け止め方をされたことに驚いただろう。そのショックから立ち直る時間もなく、投票日を迎え、結果は50議席に留まり、「自民党」の対抗勢力の役割を「立憲民主党」に取られてしまった。

ここまでは小池都知事の「希望の党」の話だが、以下は「希望の党」から「党」を少し離して考えていく。「希望の党」が敗北したのは、その党名の「希望」にもその責任の一端があるのではないかと感じるからだ。
極端にいえば、「希望の党」という党名を付けた瞬間、小池都知事の敗北が避けられなくなったのではないか。「希望」という表現が陳腐だからというのでない。多くの日本人は「希望」という言葉にさほど魅力を感じないばかりか、ポピュリズムの臭いを嗅ぎつけ、むしろ反発心が生まれたのではないか。

「希望」という以上、現状が良くないという前提がある。それ故に、その現状をチェンジしなければならない。その思考の延長線に「希望」が待っているからだ。ただし、チェンジという言葉ももはや新鮮な響きはなく、陳腐な政治的イメージしか湧いてこなくなってきているのだ。

例えば、オバマ前米大統領はチェンジを叫び、2期、大統領を務めたが、四方八方に笑顔を振り向いたわりには、米社会のチェンジは出来ずに終わった。同性愛者など少数派の権利は確かには向上したが、米社会全般のモラルは前政権以上に失墜していった。チェンジが大好きな米国人もオバマ氏の登場前のようにはチェンジというキャッチフレーズに興奮しなくなってきている。

すなわち、明確な価値観や方向性の裏付けのない「希望」はポピュリズムの言葉となっても、社会の刷新を願う政治家の言葉とはなり得なくなってきた、と感じる。小池さんとその参謀、若狭勝氏は誤算していたのではないか。その点、「希望の党」の「審査」での落選を恐れ、「民進党」に留まり、最終的には「立憲民主党」を結成した枝野幸男氏は賢明な判断を下したわけだ。その党名「立憲民主党」は、意味が曖昧模糊の「希望の党」より少なくとも理解できるからだ。

英劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、「不幸を治す薬はただ希望よりほかにない」と述べている。小池氏は日本の社会が病んでいると診断し、党名を「希望の党」とすることで、国民に「希望」を与えようと考えたのかもしれない。
そうであるならば、小池氏の心意気は評価できるし、その現状認識は間違っていないが、繰り返すが、「希望」という表現に日本人の多くは冷めた受け取り方しかできないのだ。その上、意味が曖昧なため、最後まで小池さんが主張する新しい日本像が浮かんでこなかった。

「希望」や「刷新」だけではない。本来、建設的な意味を含んだ多くの美しい日本語が政治の世界と関わってくる時、真摯に受け取られなくなり、本来の意味を失うだけではなく、マイナスのイメージが付きまとってくる。日本語にとってもこれは不幸なことだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年10月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。