リーダーになる人

ライフハッカーに今年9月、「5年後にリーダーになる人と、部下のままの人の違いとは?」と題された書評記事がありました。そこで「5年後のリーダー」とは、「たとえ小さなことでもないがしろにせず、きちんと結果を残し、期待された以上の成果を上げる。そこで得た経験をマニュアルに残したり、人に教えたり、何かを学んで人間成長しようとする」人を言っています。

あるいは、「自分の仕事に誇りを持ち、つねに全力投球する。色々な工夫をして褒められるので、仕事がますます面白くなり、さらに一所懸命に打ち込む。仕事の背景や意義なども考えて取り組むから、期待以上の結果を残す。そのため、より大きく重要な仕事を任されるようになる」人だとしています。

当該テーマで私見を申し上げると、リーダーというのは基本、その人に与えられた境涯・境遇の中でリーダーになるという覚悟、換言すれば透徹した一つの使命感を持ち、リーダーに相応しい人物になるよう自分で自分を築いて行く人がなるのだと思います。何らかの天分に恵まれたが故、自然とリーダーになるのかと言えば、決してそうではありません。

「己より賢明な人物を周辺に集めし男、ここに眠る」とは、米国の「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーの墓碑銘です。リーダーとしてより大事なのは、如何なる大志を抱き、自分の人間的魅力により優秀な人を多く集わせて、彼らと共に自分がやるべきことを明確にし、そしてその志念を共有化して行くというプロセスです。

此のという字は武士の士に心と書きますが、8年半程前に上梓した拙著『北尾吉孝の経営道場』(企業家ネットワーク)でも御紹介した通り、「士という字を見ると、十と一。十は大衆、一は多数の意志を責任を持って取りまとめること、あるいはその人たちの一般的指導者を表します。ゆえに志とは公に仕える心、多くの人を引っ張っていく責任の重たい士の心」を言うのです。

リーダー足らんとする者が高い志を持ち、世を良き方に導くべく強固な意志を有する時、そこにはやはり自分を律する心、そして努力する心といったものが必要になってきます。必ずしも特別に卓越した頭脳が必要なわけではありません。「三顧の礼」を以て劉備玄徳が諸葛孔明を迎えられたのもそうですが、畢竟その人間が人間的魅力を有しているか否かに尽きると言えましょう。

そもそもリーダーとは、その人自身がどう思うか・周りがその人をどう思うかといった問題だと思っています。孟子は、どのようにして人が天子になるのかについて、「天授け、人与う」という言葉を残しています。天が天命という形で授け人民が与うという形で、人は天子になる、指導者になると言っているのです。人徳のない人には、人はそのようなポジションを与えないのです。

自分で「社長になりたい」「大臣になりたい」と思っても、必ずしもなれるものではありません。上記した真面目な努力等を怠って要領よく地位を得ようにも、絶対に得られるものではないのです。それなりに自分を律し、それなりの努力をし、それなりに自分の人間力を高め、世のため人のためを掲げて人望を得、そして「リーダーになって当然だ」と皆が認めてくれる人間にならなければならないのです。

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