古代から巧妙に膨張するコリアン国家

八幡 和郎

韓国・朝鮮国家は歴史的に非常に巧妙に拡大を続けてきたが、そのことを中国人はよく理解しているが、日本人は無警戒に過ぎる。そのあたりも『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)で扱ったので少し紹介しよう。

朝鮮半島というと南北朝鮮の領域といわれるが、これは、政治的な定義で、地理的には平壌以南とみるのが普通ではないか。

もともと古朝鮮と呼ばれる箕子朝鮮と衛氏朝鮮が紀元前に遼東地方を中心に平壌付近までの渤海湾沿岸にあったが、いずれも、漢民族の国だった。漢の武帝は、これを滅ぼして楽浪郡などを設け中国の内地化したが、四世紀になって満州で扶余族が建てた高句麗に滅ぼされた。

一方。ソウル付近より南は、馬韓、弁韓、辰韓にわかれそれぞれを10か国以上に分かれていた。民族はさまざまであったようだ。このことで分かるように朝鮮と韓は場所も民族も互いに関係ない。

4世紀には、馬韓では百済が、辰韓では新羅が成長し、北からは高句麗、南からは日本が勢力を伸ばし、四つ巴で統合が競われた。

このうち現在の南北朝鮮のルーツである新羅は慶尚北道の小国として出発したが、初代の国王は卵から生まれた孤児とされ、第4代の国王は日本人であるとされる。

新羅は6世紀には日本の支配していた地域(日本名任那)を侵略して吸収し、だいたい慶尚南道・北道を領域とすることに成功し、百済と高句麗の抗争の地であった京畿道(ソウル付近)を横取りした。

この新羅の侵略の拡大に危機感をいだいた高句麗・百済・日本は同盟を組んでこれを阻止しようとしたが、新羅は唐と組んでその従属的な反独立国に甘んじることを条件に、生き延びを図り、百済と高句麗を唐が併合するために加勢した。

唐は百済、高句麗の旧領のみならず新羅も羈縻州(自治領)としようとしたが、新羅は日本の助力を求めながら抵抗し、唐が吐蕃や渤海と戦う状況のなかで百済の旧領と、高句麗の旧領の大同江以南を支配下に置き、のちに、渤海を唐と共同で攻めることを条件にこの併合を認めさせたのは八世紀のことである。この取引の成功で、日本に対する従属関係を実質敵には空洞化することに成功した。

新羅を継承した高麗は、その出発において高句麗の復活を標榜する勢力が新羅からの自立を図ったものだったこともあり、新羅と後百済を滅ぼした後、平壌から鴨緑江に至る北西部を領土にすることに成功した。しかし、元の進出で平壌付近や済州島を元に併合された。

李氏朝鮮の創始者である李成桂は、ルーツは南西部の全州であるとされるが、北東部の咸鏡道に移り現地の満州人などと混血したようである。このために、咸鏡道を併合することに成功し、また、元に奪われていた平壌付近や済州島を取り戻した。

鬱陵島については、李氏朝鮮はいったん放棄して、日本人の支配下にあったが、江戸幕府は朝鮮の要求をいれ、お人好しにも鬱陵島を引き渡した。このことが、のちに、韓国が竹島に食指を伸ばす伏線になったわけで、鬱陵島放棄は馬鹿げた話だった。

ついで、彼らが狙うのは、ひとつは対馬であろう。対馬の支配者である宗氏が日本に属しながら、朝鮮国王と特殊な関係をもっていたことから、野心を見せ、対馬の土地を買いあさり、実質的な支配を及ぼすことを狙っている。

また、南北朝鮮は自分たちを高句麗の継承国家と称している。これは無理な主張で、高麗や渤海に高句麗の残党が参加したというだけだし、渤海が朝鮮民族の国だというのは、1957年になって突如、提唱された新説だが、これはいずれ領土要求につながって行く可能性がある。

また、吉林省の朝鮮族自治区は、清国時代に満州族が中国を支配して多くが中国本土に移った後に朝鮮族が進出したものだが、これも併合したいという誘惑に駆られる可能性はある。

いずれにしても、慶尚北道の小国から出発した朝鮮民族・国家の拡大は粘り強く執拗に勧められてきたものであり、日中両国ともに常に警戒を怠るべきではない。

八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24