SAPIO2018年1・2月号に仲井眞弘多・前沖縄県知事の「活動家と化した翁長君へ」と題するインタビューが掲載されている。
「一体、沖縄をどうしようとするのか、この人物は意味不明。私の承認手続に瑕疵がなかったことは最高裁が認めた通り。辺野古のテントで反対と叫んでいる活動家と変わりがない。基地問題に労力の8~9割を費やしているそうだが県知事の責任を放棄してる」
といった内容のものだが詳しくはリンクを見て頂きたい。
仲井眞前知事は、経済産業省の先輩である。生まれは疎開先の大阪だが、戦後の那覇で育ち、那覇高校から日本政府国費留学生として東京大学工学部で学び、通商産業省に技官として採用された。
イタリア留学という変わった経歴だが、留学したいが穴場がないかと探した結果だと聞いた。
沖縄総合事務局の通商産業部長をつとめたあと本省に戻り、やがて、沖縄電力の民営化とともに専務に就任した。その民営化問題を議論している頃、私は沖縄総合事務局通商産業部のナンバーツーだったから、頻繁に来沖していた仲井眞氏にお会いする機会も多かった。
その後、保守系の西銘知事から革新系の大田昌秀知事に交代したときに、国との調整役を期待されて副知事となり、その後、沖縄電力の社長、会長をつとめたのち知事に当選した。
知事としては沖縄振興のために非常な業績を残したが、鳩山首相の「最低、県外」発言で普天間基地移転が混迷するなかで、県外移転が現実に可能と期待を膨らませた地元世論と現実の間で苦労した。
健康状態などから気乗りがしなかった3選出馬をほかの候補者が逃げる中でせざるを得なくなり、もともと自民党県会議員だったが、共産党まで含む勢力にのせられた翁長那覇市長に敗れた。
仲井眞氏は先祖が福建省から移住して那覇市の久米というチャイナタウンに住んでいた家系で、中国名は蔡さんである。
明の洪武帝は、中国を統一したとき、琉球に使者を派遣して、朝貢を促した。沖縄は古くから日本の一部とは認識されてきたが、平安時代までは採集経済、つまり縄文時代だったので組織だった統治は行われていなかった。そこに、南九州から農民が移住してきて、それが現在の沖縄県民の先祖の主流だといわれる。琉球王国の始祖が源為朝の子だと正史でされているのはその反映だ。
そして、ようやく室町時代には3つの小王国が成立したが、そこに明の洪武帝が使者を派遣して船も用意するからということで朝貢を進めた。また、読み書きができるものがあまりいなかったので、福建省から華人を送り込み官僚として仕えさせた。その子孫がチャイナタウンの人たちであるので、人数は少ないが上流階級なのである(沖縄の人は平均的には人種的には日本でいちばん中国人から遠いところにある。そのあたりの沖縄の歴史は、拙著『領土問題は「世界史」で解ける』(宝島社)で詳しく書いている)。
父親の仲井眞元楷氏は、沖縄のラジオで「方言ニュース」という琉球言葉による報道番組を長く担当していた人である。
いわば、沖縄ナショナリズムの本家みたいな存在だし、多くの久米の人たちと同様に歌人である先祖について、それを誇りにすることはあっても隠されることはなかったし、福建省との交流にも熱心だった。
そうした先祖への敬意はしっかり持ちつつ、日本人としての愛国心にあふれた方である。というより、自分が華人系であるということから、より明確に日本人という国籍の意味を明確に感じているということだろう。
政治家など公共の仕事につくとき大事なのは、何世代前から日本人かでなく、国民として必要な文化への愛着と国家への忠誠だ。