NHK大河ドラマ「西郷どん」が始まって、この謎めいた人物について人格者かどうかとか、偉人といえるかなど議論が百出している。
そこで、「『篤姫』と島津・徳川の五百年 日本でいちばん長く成功した二つの家の物語 」(講談社文庫)、「最終解答 日本近現代史」 (PHP文庫)など幕末の薩摩についても何冊かの本を書いての、私なりの結論を書いておきたい。
一言で言えば、西郷は「正しい人」ではないが、抜群のリーダーシップを発揮して、彼の決断で歴史が動いた。良い決断も悪い決断もあるが、+-では最後の大失敗を差し引いても疑いなく+だ。さらにいえば、消えるべき時に消えてくれたことも好ましいことだった。
山県有朋が西郷は「刃先三寸を隠せた」といってるが、そこのところが、大胆な決断をするときのキーマンになれたポイントなんだと思う。薩長盟約も、王政復古も、廃藩置県もしかり。
ところが、征韓論では自分がメインプレーヤーになりすぎたし、西南戦争では弟子たちが勝手に西郷の気持ちを忖度して動いたのでドツボにはまった。西郷は人格者でもないし、知恵や見識があるわけでもないが、人間的魅力と行動力で倒幕の最大功労者になった。ただ、情緒的に過ぎて最期は道を誤ったのだ。
西郷は不可解な人物である。信用できる人物であったかといえば、そうでもない。鳥羽伏見の戦いのときには、江戸で無頼漢にあちこち放火などさせて挑発し、無理矢理に戦いに持ち込んだなど、姑息な奸計も厭わない。
恩人である斉彬には心酔していたが、その斉彬自身が「西郷は独立心旺盛だから、普通のものでは使いこなせまい」といった。久光に対しては「貴方のようなジゴロ(田舎者)には中央政界での工作は無理です」と言ってのけたのだから、主君に忠実でもない。しかも、久光は文久の政変で大成功を収めたのだから、西郷の予言はまったくのはずれで大見込み違いだった。
写真が残っていないし容姿もよく分からない。身長180センチ、体重100キロで、たしかに大きかったようだが、大隈重信は「不細工な身軀」といっている。
政治思想がどのようなものかも、まるでよく分からない。彼がどのような政治制度をめざしていたのかについても、ほとんど理解不能である。
「敬天愛人」という西郷隆盛の言葉は、座右の銘として大人気だが、西郷自身の説明を現代風に敷衍したとしても「進むべき道というものは、おのずから定まるものであり、人はこれにのっとって行うべきものである。何よりもまず、天を敬い、天が他人も自分も平等に愛するように、人間も自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」といったようなわけのわからない曖昧なもので、なんとでも解釈できる。
広く受け容れられているのは、当たり前のことを行っているだけともいえるので、言葉のイメージ以上のものをどう解釈するかは、ほとんど自由だ。だから、あれを座右の銘にしている人は原則を持たずに、場当たりで行動し、あとづけで自分のやったことを肯定したいのでそうしているのだろう。ひとことでいって、座右の銘として意味がない。
そうはいっても、西郷の言葉には、人を動かす不思議な力があるし、「一日先生と接したら一日の愛がしょうじ、三日接したら三日の愛が生じる。もうどうしようもない。いまは善悪死生を共にするだけだ」と西南戦争で西郷軍に身を投じた増田栄太郎が言った言葉に示されるように、とてつもない人間的魅力があった。
西郷の言行録として知られる『南洲翁遺訓』は、庄内藩の関係者がまとめたものだが、そもそも、庄内藩はすでに紹介した江戸での放火事件に挑発されて三田の薩摩屋敷を焼き討ちする羽目になって、結局、戊辰戦争で討たれたのであるが、措置が寛大であったと感激して君臣で鹿児島まで教えを請いにいったのである。だが、戊辰戦争において、官軍にあって西郷がとくに寛恕派だったのでない。
江戸無血開城にしても、西郷が突出して強硬派だったのが、最期になって譲歩しただけで、いわばおいしいところをとっただけだ。
薩摩の人は、「議をいうな」とよくいい、理屈先行が嫌いである。思想的な新しい流れをつくるのは苦手だが、正義感で、どちらに大義があるか見極める不思議な力があり、新しい時代をつかみとってそれに乗るのに強く、また、「薩摩の大提灯」というように、優れた指導者について力を合わせるのに秀でている。
その代表が西郷であって、若い時には斉彬の素晴らしく有能な片腕となり、その死後は斉彬の父である斉興の反動政治のなかで抵抗のシンボルであり、久光の下でいったん復権するもののすぐに失脚するが、復権するや禁門の変以降に薩摩が中央政界で主導権を握り、やがて、倒幕に方向転換するについて主導権を握った。
そして、王政復古、鳥羽伏見の戦いを通じて、タカ派的路線の主導者として優れた手腕を見せ、廃藩置県については主唱者ではなかったが、それを支持することで流れをつくった。誰がなんといおうと、西郷は倒幕と維新の最大の功労者なのである。
だが、新政府が向かう合理主義的な割り切り、押しつけ、高官たちの奢侈と驕慢さに我慢できなくなったといって政府を去り鹿児島に帰った。そして西郷は、「抵抗」の精神を失わない人たちのシンボルとなった。
そして、私学校の弟子たちが、政府軍の武器を奪ったと聞いた時、西郷は「しまった」と叫んだというが、おそらく、あの事件がなかったら、西郷はそれまでと同じように、隠退と再登場を繰り返していたのであるまいか。
彼の「抵抗の精神」の具体化が多分に衝動的で取り返しがつかない反乱であったのは、なんとしても惜しまれるところだが、権力の頂点にたったもののそれが似合わない西郷にとって消えるべきときに退場したと結果的にはいえるのである。