先日、こんなニュースが流れてきました。
「学力テスト下位返上のため、夏休み5日減 東松島市、授業30時間増で学力向上目指す」(朝日新聞)
このニュースに限らず、「授業時間を増やす→学力があがる」という考え方は結構根強くあります。似たような事例は他にもありそう。
「学力=学んだ時間」という量のモデルです。
例えば、小学校における漢字練習を考えてみます。
今でもノート1ページにひたすら練習するのが宿題、みたいなものがあったりします。(子どもの頃、にんべん先に全部書いて、その後に木を一気に書く、なんてしてたなあ・・・)計算ドリルでひたすら練習(答え写しているの母親に見つかってドリル捨てられたことがあったなあ・・・)、みたいなのも。ここに端的に先ほどの素朴なイメージ、「学力=学んだ時間」が根強くあることが表れているなあと思います。
カバーしなくてはならない内容が多いので(網羅主義的カリキュラム)、授業時間が多いにこしたことはない、と考えがちな事情もあります。
ここで考えたい。当たり前と言えば当たり前ですが、大切なのは質です。
その時間で学習者は何をどのように学んでいるのか(あるいは学んでいないのか)ということを検討せずに、時間の善し悪しはわかりません。
時間をいくら増やしても、その時間がただ聞いているだけでノーミソが止まっている、ぼーっとしている、ぜんぜんわからない、あるいはとっくにわかっている、という子が一定いる現状では、あまり意味がないでしょう。安易に子どもたちの時間を奪わないようにしたいと切に思います。
まずは、学校で行われている学びの質を問い直すことです。仮に時間を増やしたときに、学習者から「やったー!」と声があがるようになったら、はじめて意味ある時間増といえるでしょう。
その問い直しの動きはいろいろ出てきています。次期学習指導要領も「主体的・対話的で深い学び」を出していますし、ぼくらが取り組んでいる軽井沢風越学園設立プロジェクトもそのひとつ。
上智大の奈須正裕さんはこう言っています。
「〜国際的にみると、知識・技能の習得だけでなくそれを活用する授業に代えた場合、学習項目は少し減らすのが一般的です。このような授業を先行して行っている欧米諸国ではLess is More、「少なく教えて豊かに学ぶ」という考え方が根付いています。」出典:ベネッセ教育情報サイト「主体的・対話的で深い学び」で授業・家庭学習はどう変わる? 学習指導要領改訂のポイント③
学習内容の精選も、次の学習指導要領改訂(2030年?)では重要な論点になっていくことでしょう。
さて、ここまで書いてきて、
「時間をかければ学力があがる、という素朴な考え方は、実は教職員の働き方と入れ子構造になっているのではないか?」という仮説がピコンと浮かびました。
教師の仕事も同様に「いい仕事=かけた時間」と捉えているところはないか?ということです。
例えば、学習者のノートに長いコメントを入れる先生がよい先生、遅くまで残る先生がよい先生、添削も先生の仕事(学習者自分で行うことで自分の学習状況を自分で管理できるようになるというメリットがあるにもかかわらず)、教室環境を放課後一人でせっせと整える先生がいい先生等々。
子どものために時間をかければかけるほど、手をかければかけるほど良い仕事であるという価値観は根強いと、ぼくの現場経験(サンプル数1で恐縮です)で強く感じています。
でもこれは本当でしょうか?
「時間をかけた方がよりよい」という価値観において、教職員の働き方と教室での学び方は入れ子構造になっているのではないかと思うわけです。
今、教員の働き方改革が注目されています。
日本の先生の労働時間は世界一です。小学校で約6割、中学では約8割近くが過労死ラインだそうです。異常事態です。これは個人の働き方、個人の努力の問題ではなく、システムの問題です。ですからシステムとして改善していかなくてはならない喫緊の課題です。
そのことと並行して、「子どものため」と際限なく仕事を増やしてしまうぼくたちのあり方を問い直す。
さらに「学校で行われている学びを問い直す」必要があるのではないでしょうか。
でなければ、仮に学校での負担が軽減されたとしても、学校でおこなれる学びに変化がおきるとは思えないのです。そこでの被害者は学習者です。子どもの時間は奪われ続けているのです。
数年前、オランダの学校に見学に行ったときのことです。
その学校に宿題がないと聞いて驚きました。その理由を尋ねるとおおよそこんなことでした。
「学校で毎日学習している。決められた時間の中で終える、ということが大切。家での時間は各家庭で豊かに過ごしてほしい。だから家に持ち帰らない。大人の仕事も同じで決められた時間の中で終えるのが有能で、残業や仕事の持ち帰りはしない方がいい。余暇は自分の時間。宿題を毎日持ち帰るというのは、仕事の残りを持ち帰るようなもの。子ども時代から、余暇を豊かに過ごす体験をしてほしい」
がーんと頭を殴られた気がしました。
話が横道にそれました。
2000年代初頭の上越市立高志小学校のチャレンジは、文部科学省の研究開発校でありながら「開発学校って、ちょうちん学校になるのでは?そうではない、5時までにする研究開発」というキャッチフレーズに表れているように、「教師の学び方を変える=子どもの学び方が変わる=働き方が変わる」改革を目指していました。
「教師の学び方を変える=子どもの学び方が変わる=働き方が変わる」学校体制のデザインは、働き方改革において重要な柱だと考えています。私たちはシステムや制度の改善を望むのはもちろん、私たちが現場でできることからも取りかかりたい。
小さな業務改善の積み重ねと共に、最も重要なのは学校の中から「学びの構造転換」に取り組むことができるはずです。
自分たちの環境を変えるコントローラーは自分の中にあるという感覚をもう一度私たちは取り戻したい、そんなふうに考えます。
そのためには、学校での教職員の学び方自体を検討する必要があります。教職員の学びなくして構造転換はないからです。これまでの「研究授業モデル」は限界が来ているのではないかと、私は考えています。ではどうすればよいか、あらためてまとめてみたいと思います。
この本読み直さなくちゃ。
繰り返しになりますが、働き方改革と学校での学び方改革は両輪です。働き方改革に向けて大きく動き出している今だからこそ、学校での学びの構造転換を目指したいです。両輪が回って始めて学校は変わっていくと思うのです。結局働き方改革って、学校での学び方改革とつながっていて、その学び方改革は子どもも教職員も両方なのだなあ。
編集部より:このブログは一般社団法人「軽井沢風越学園」発起人、岩瀬直樹氏(東京学芸大学准教授)のブログ「いわせんの仕事部屋」2018年1月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩瀬氏のブログをご覧ください。