超ヒマ社会のススメ5:局長はAIでいいんじゃね?

超ヒマ社会、人のことより、自分はどうするかを夢想しよう。
特化型AIに専門家の仕事は奪われて、ジェネラリストが有利になる。やたらと企画したり空想したりする、その腕を磨こう。今はいているわらじの数を、もっと増やそう。

「超ヒマ社会のススメ2:キリギリスはAIアリのマネジメントを」
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2018/01/ai.html

「超ヒマ社会のススメ3:何足のわらじをはきますか?」
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2018/01/blog-post_25.html

そして、自分の遊び方革命だ。超人スポーツやら、お笑いライブ巡りやら、ゲリラバンド活動やらに時間を割く。読んだり観たりするのも増える。そういえばこの数年、読む本の量がどんどん減ってきているのですが、それは他に読むものが増えているせいです。ネットのニュースやらコラムやらまとめサイトやらツイートやらそんなものを大量かつ高速に読んでいるからです。

カリフォルニア大学サンディエゴ校などの研究によると、インターネットの普及により、1980~2008年に人が「読む量」は3倍に増えたそうです。人はより読む生き物になっているのです。

この数年ぼくは鑑賞する映画の作品数も減っています。ここで映画というのは、劇場映画ないしそれをDVDやネット配信に落とし込んだ作品のことです。しかし、映像作品を観る時間は格段に増えています。NetflixやhuluやAmazonのせいです。いや、おかげです。

Netflix「火花」10話、劇場上映はありませんが、あれは映画なのか違うのか。カンヌ映画祭がNetflix作品を認めるか否かで悶着がありましたが、政府・知財本部の映画振興会議でも映画なるものの定義とメディアとの関わりの整理が求められています。かつて蓮實重彦先生が「35mmでないものは映画じゃない」と書いておられましたが、だとするともう映画ってものはないわけで。

そもそも自分にはムリ、って仕事もたくさんあります。

タクシーの運転手にはなれません。運転には自信がありますが、どの経路をどう取るか、地理空間の把握力が低くてお客さまに叱られます。赤坂で拾って、西麻布に向かってくれい。「外苑東から星条旗通りですか、青山一丁目から乃木坂にしますか、溜池から六本木に向かいますか」なんて、路線図を脳内に描いてたちどころにルートを割り出すなんて、ぼくから見れば超人技です。

京都もんにとって道というのは東西南北に碁盤で、出発点と到達点さえわかれば、経路をどう取ろうが距離は一定で、とりあえず向かえば何とかなる。問題は北がどっちにあるかで、常に盆地の山を見て北を確かめ、はじめの一歩を間違えなければ大丈夫。東京は、山はないし、道は斜めったり弧や円を描いたりしてるし、五叉路とかあるし。東京の道はアホや。かしこやないと運転できひん。

ソムリエもムリ。ブルゴーニュ、ボルドー、トスカーナ、ナパバレー、チリ。ピノ・ノワール、シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニヨン。知らんわ。白か赤かロゼか泡か、見たらわかることぐらいしかわかりません。奇跡のマリアージュとか、よう起こさん。繊細な舌センサーと、その記憶データベースから引っ張り出して掛け合わせてマッチングする想像力と、それを再現する創造力が要るんですもんね。

先生もムリなのです。教授の肩書を持ってはいますが、教えることなどできません。ぼくの持つ知識なんてのは、書き物にしてありますから、読んでもらえば足ります。ぼくにできることは、プロジェクトの場を用意して、そこに参加してもらって学んでいただくことぐらい。教育者っぽいことはできません。世の中の先生のみなさまには頭が下がるのであります。

自分に向いている仕事って何だろう。生まれ変わったら、何になりたいかな、ぼくは。

たぶん、最初はまた官僚を選ぶと思います。官僚はジェネラリストで、超ヒマ社会向きだからです。そして官はそこからの道筋が広いから。ぼくは官から学と産(ビジネス)の道に進みました。天下りじゃなくて、天上がり。若くして飛び出しましたんでね。逆に、学や産から官への道はまだ狭い。

官から他の道に流れて成功した先人って、結構いるんですよ。政治だと吉田茂(外務)、岸信介(農商務)、池田勇人(大蔵)、中曽根(内務)ら戦後の総理大臣たち。最近では地方政治に京都の山田知事(自治)や広島の湯崎知事(通産)など多くの例があります。産業では村上世彰さん(通産)、文化では三島由紀夫さん(大蔵)がおられます。

いま官僚に2足3足4足のわらじを無理にでもはかせれば、かなり活躍してくれるんじゃないかな。ぼくが現役のころ、もっと緩かったですよ。官僚のかたわら、本を書いたりTVに出演したり、自由に動けました。その後の官僚バッシングと公務員倫理法の縛りとで、国を代表するジェネラリストが縛られているんです。

AIの超ヒマ社会には、そういう人たちを解放することが大事です。まずは官僚の働き方を改革しましょう。官僚の遊び方を解放する、というほうが正確かな。改革は、まずは、官から。AIは役所から導入しましょう。経産省は国会答弁をAIに作らせてるっていうし、だったら局長や審議官はAIでいけそうだから、そのあたりから置き換えて。そうして役所を超ヒマにして、その分、若い官僚たちに外へ出てもらい、ジェネラルな仕事をしてもらおう。

ところで、AIで到来する超ヒマ社会は、変化必定の世であり、ジェネラリスト・よろず屋が強い。それに対応するには、変化を楽しみ、学び直しを当然とする姿勢が大事。だけどそれは専門性を捨てることじゃなくて、1-2年に一回、新しい専門領域を作っていく、という作業だと思います。

てなことを言うのも、ぼくはそういうことを余儀なくされてきたから。大学は5年行ったものの音楽ばかりしていて専門なるものがないまま官僚というジェネラリストの道を選び、その後仕方なく目の前の仕事に応じて勉強させられたからです。

社会人最初の配属は通信自由化の戦争まっただ中で、伝送・交換技術、情報流通の経済学、独占公益事業の法制度をテッテ的に勉強しなければついていけなかった。担当した自動翻訳プロジェクトを回すには、音声認識や機械翻訳の先端技術をテッテ的に勉強しなければ相手にされなかった。

次の配属のCATV/衛星部門では、映像技術、電波・放送法制度、広告・コンテンツ業界構造をテッテ的に勉強させられた。郵便局への転出では郵便・貯金・保険の勉強を、パリへの転出ではフランス語や欧州政治経済を。行革担当では行政法や国家組織を。当然のことです。

でもね、もっとキツかったのは外に出てから。MITに参加したとたん、コンピュータやAIや物理化学やデザインを必死こいてかじり直さないと会話にならないし、セガの仕事ではゲーム制作や半導体のイロハを知らないと会議にも参加できない。そんなことの繰り返し。

超ヒマ社会は、ヒマを乗り切っていくだけの、幅広い勉強や鍛錬が求められていくと思うんです。ぼくはヒマ社会を熱望しているのですが、それはヒマだからであって、ラクだからじゃないんですよ。けっこうヒリつく刺激的な日々になるかと。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2018年2月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。