日本の春は学生が一斉に社会進出する季節だが、夢見る新社会人は、日替わり定食型やエコバッグ型と毎年揶揄され(「新入社員タイプ一覧」日本生産性本部)、3年で3割の大卒者が早期離職する状況が昭和62年(1987年)から不変だ(「新規学卒者の在職期間別離職率の推移」厚生労働省)。
私は、小規模私立大学にて就職課の職員として学生の進路支援に従事しているが、大学の偏差値や認知度を問わず、学生は皆同じように見えて見所がないというご意見を企業人から頂戴する。しかし、企業人の皆様に一言申し上げておきたい。企業人の皆様も十分に没個性的でおられる、ということを。
たしかに、学生が履歴書や面接でアピールすることはバイト、サークル、ゼミ、体育会ばかりだろう。今年は一体何人の副主将がいるんだという笑い話なども耳にする。話し方や面接室への入室方法など外見についても、金太郎飴の如く画一的で面白味がないのかも知れない。
しかし、企業のアピールも学生のそれと相似形だ。たとえば「当社の説明会では会社説明はせず採用側から見た就活のアドバイスをします」や「当社の仕事はお客様からありがとうを頂く仕事です」、「当社の財産は人です」などの定型的な決まり文句は一体何社からプレゼンを受けたか分からないほどだ。判をついたように芸がなく、もし学生が面接で同様の受け答えをすれば一発アウトだろう。
ではなぜ企業の場合はアウトにならないか。それは、景況感の影響はあるものの、採用における基本的なパワーバランスが買い手の企業側に傾斜しているからだ。そのため、没個性的な企業だと感じても学生側にわざわざ指摘するインセンティブはない。家族や友人や教職員に愚痴をこぼすのみだ。不幸なことに企業はその事実を知らないから、疑うことなくどんどん没個性的な道をひた走る。結果、この手の企業が新卒採用市場に跋扈する。
学生には「もっと企業理解を」とご指導されるが、そっくりそのまま企業人の皆様にもお返ししたい。あまりにも貴社の仕事理解が浅すぎはしないか。どんな仕事も顧客からありがとうを頂く仕事である。だが、それだけでは他社との差別化にはならない。自社の商品やサービスがどれほど社会的に意義があり、誰のどんな問題を解決しようと設立され、今向かっている方向はどこなのか、そうした歴史と未来の物語をイキイキと語ってくださる企業人は極めてレアである。
知名度が高い企業の場合はネームバリュー推しだし、知名度が低い企業の場合は申し訳なさそうに御願営業される。申し訳ないが、只の有名大学に通っているだけの学生や自信を持てるほど行動していない学生と大して差がないように思えてならない。学生もイケていなければ、企業もイケていない。就職活動も採用活動も、めちゃめちゃイケていないのである。
原因は何か。複合的な要因だとは思うが、たとえば人事があまりにも他人事すぎる。一見花形イメージの人事部も、実はローテーションにより不本意で配属されている方も少なくない。異動で不時着的に採用をやることになった不本意社員が仮に、採用業務はあくまでこなすタスクであると割り切れば、その瞬間に仕事は作業と化し、情熱なき冷めた採用活動に成り下がる。
事実、人事部の皆様は手元に採用計画があり、数字を背負わされ、母集団形成段階からの目標やKPIを設定させられ、作業と割り切るほかないくらい忙殺される日々である。 しかも、1年が終わったと思えばすぐに次年度の採用がやってくるし、なかには採用以外の人事業務を兼務している方もおられる。採用業務に喜びを感じたり学生に親身になれるビジネスパーソンならば採用が作業にならないだろうが、世の中そんなエクセレントな人事ばかりではない。
もちろん、企業側にのみ責任があるわけではない。大学以下の教育業界がそうした没個性的な人物しか輩出してこなかった、もしくは意図的に再生産してきたという側面も否定できない。やや暴露的になるが、大学の中には、学生の履歴書やエントリーシートを大人が代筆するところもあり、それほど就職率という分かり易い指標の見栄えに重きを置いている。大学は、入る時は進学希望者全員が入るという意味で「全入」だが、出るときも就職希望者全員が就職するという意味で「全入」を是としている節がある。学生には個性や多様性を求めながら、自分たちは公平性という耳障りのよいキーワードを盾に「みんないっしょ」が大好きなのである。その罪は大きく深い。
他にも、就職問題懇談会(国公私立の大学、短期大学及び高等専門学校で構成)より各大学宛に就職活動に関する申合せが届いているのだが、その中に「大学等は、採用選考において学生の学業への取組状況を適切に評価するよう企業等に要請する。」とある。確かに希望としては理解できる。学生の大学での勉強をきちんと評価してくれれば関係者は報われるだろう。しかし、それは改まって要請するものではなくフェアにアピールするものである。実際に、学生が本当に学業で学びがありきちんとアピールできれば、必ず企業は評価して下さっている。評価されないのは、学業エピソードがアピールレベルに未達の場合、そして、そもそも学業以外しかアピール素材がない場合で、何れも良質な教育を彼らに施せなかった大学側の問題であり、それを棚に上げて企業側に頼むから評価してくれと要求するのであればお門違いも甚だしい。
企業人の皆様も大半は元大学生であり、こうした教育業界の実態とヒトの仕上がりを痛いほど知っているから、「ジンザイ、ジンザイ(人材)」と大合唱する。試しに「リクナビ2019」で“人材”と検索すると9847社がヒットする(全体の約32.2%)。1人を採用するためのコストは46.1万円とも言われる(「2017年卒マイナビ企業新卒内定状況調査」マイナビ)が、どれだけジンザイを声高に叫んでも、コストをかけても、3割が安定的に3年で辞める始末だ。
それなのに、ここまで企業が口を揃えてジンザイ、ジンザイと口裏合わせのようにリクエストするのはなぜか。真の理由は、ズバリ、教育を諦めているからである。人はそう簡単には変わらない。デキの悪い子がいきなりデキの良い子にはならない。ひとたび育った人を矯正し再教育するには多大なコストがかかる。企業にそこまでのコストをかけて人を育てる余裕はない。そのため、入社後の教育で何とか帳尻を合わせるやり方よりも、入社前の採用で再教育の必要がないような人材を確保し決着を着けておく方がコスパが良いのだ。別に、人を財産のように扱うとか、人に投資している企業ばかりがジンザイと言っているのではない。人を育てる余裕のない企業や、育てたくない企業が、生存競争のための作戦としてジンザイ、ジンザイと叫んでいるのである。
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高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。