土俵の“女人禁制”と法の下の平等について

荘司 雅彦

Better Than Bacon/flickr(編集部)

4月4日、京都の舞鶴市で行われた大相撲春巡業で、土俵上で倒れた多々見良三市長に救命措置を施した女性に対して「女性は土俵から降りてください」と場内アナウンスがされたことが話題になっている。最大の論点は、「相撲の土俵に女性を上がらせないのは男女差別か否か?」という点だろう。

憲法14条は

「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」

と規定している。

憲法は国または公共団体と私人との間を規律するものだが、私人間でも憲法の規定を間接適用するケースが多い。

実は、憲法14条は、私が司法試験の口述試験で尋ねられた条文だ。

「本条に規定してある社会的身分とは何かね?」と訊ねられ、「人が後天的に取得した地位であり、一定の社会的評価を伴うものです」と答えたら、主査の試験官は残念そうな顔をした。

次に、「国立の女子大学は憲法14条に違反するかね?」と訊ねられ、「違反すると考えます」と答えたら、ますます残念そうな顔をした。主査は、このあたりで受験生をイジメようと考えていたのだろう。

男女平等は様々な面で遵守されるべきである。
とりわけ、男尊女卑の風潮が強かった日本では、女性蔑視的な姿勢は厳に慎むべきだ。

ただ、個人的には、もう少しダイバーシティ(多様性)を認めてもいいのではないかと思うケースが少なくない。
男女は正反対の極に位置するもので、一方の極に「男らしさ」があれば他方の極に「女らしさ」がある。

両極をはさんで帯状のように中間的な領域がある。男女間で得意分野もかなり異なっている。

昔の銀行の店頭は、電話を受けながら他の顧客の伝票処理をしていると別の来店客の書類が回ってくるなど、同時並行的に複数の仕事を強いられた職場だ。
1年以上店頭業務をしていた私にとって、女性行員の手際よさは、まさに神業のように思えた。

最後に勘定が合わないと真っ先に私が取り調べを受け(笑)、実際すべてが私のミスだった。
同期入行の商業高校卒の女性職員にも大きな差を付けられ、とても情けない思いをしたものだ。

同時並行的事務処理が苦手なのは、狩猟採取時代のなごりが今でも男脳と女脳に残っているからだと教わって少しばかり安心した。

余談ながら、指をまっすぐに伸ばして中指の左右を比べてみよう。
薬指が明らかに長いのが男脳タイプで、薬指の長さと人差指の長さがトントンなのが女脳タイプだそうだ。

労基法3条は

「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」

と規定している。

憲法14条と異なり、本条には「性別」が入っていない。
解釈の問題もあろうが、男性に適した仕事と女性に適した仕事というものが存在することには疑いの余地はない。

プロの力士たちは明らかに男性に適した職業だろう。
あくまで個人的見解だが、私は女性のプロ力士同士の対戦は見たくない(子どもたちのチビッコ相撲は別だ)。

男性の宝塚俳優や女性の歌舞伎役者も、(少なくとも現時点での)私にとってはNGだ。
時代が変われば、見方も変わってくる可能性は大いにあるが…。

このような見地からすれば、大相撲というローカルな世界で、現時点で「女人禁制」があってもいいと思う。
歴史的見地から考えても、「神事だから(生理のある)女性を穢れたものと見た時代があったんだな~」と、悪しき過去を振り返ることができる。

男女平等は気分けて重要な理念である。しかし、実害がない限り、ある程度ゆとりを持たせた方が、ダイバーシティという観点からは心地よいのではなかろうか?

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荘司 雅彦
講談社
2006-08-08

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2018年4月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。