長谷部恭男教授の最新刊『憲法の良識』(朝日新書)を読んだ。驚嘆した。憲法学者による著作群の歴史の中でも、ここまで徹底した他者否定と自己肯定は、珍しいのではないか。
公平に言おう。この本は、長谷部教授へのインタビューの内容がまとめられたものに過ぎない。また、最後に付け加えられた長谷部教授が自身の人生を愛読書と共に振り返る箇所などは、面白いところもある。
それにしても、である。冒頭から一本調子で延々と続き、最後にまた繰り返される徹底した他者否定と自己肯定は、強烈だ。特に目を見張るのは、他者否定と自己肯定が、「憲法学者であるか否か」、という基準によって展開していくことだ。
私は門外漢ながら、『集団的自衛権の思想史』と『ほんとうの憲法』を執筆した事情もあり、これまで主要な憲法学の学術書は、読み込んできたつもりだ。しかし今回の長谷部教授の本は、すごい。異次元レベルの自己賛美の書ではないだろうか。
学術的な内容面を見れば、『憲法の良識』のほとんどは、平凡な憲法の説明と、これまでの長谷部教授の著作からの抜粋である。むしろ強い印象を受けるのは、平凡な一般論が、突然、具体的な結論と、それに続く侮蔑の言葉につながっていくところである。
通常、長谷部教授は、自分が批判する相手の議論を引用したり、具体的に参照したりもしない。ただ侮蔑する。
「不思議な議論がここ数年つづいているので、まともに法律を研究している人たちや、憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっているわけです」(25頁)といった言い回しは、長谷部教授の議論の仕方に慣れている者にとっては、お馴染みといってもいいレトリックである。こういう場合、長谷部教授は、なぜそう言えるのかを、説明しない。具体的な議論に引き込まれる余地を作ることも避ける。そして、ただ、一方的に高みに立とうとする。
具体的に反論してくる可能性がなさそうな政治家のような人物であれば、名前をあげる。しかし曲解した形でのみ参照する。そしてレトリックを重ねたうえで、最後はやはり侮蔑の言葉で結ぶ。
長谷部教授が繰り返し執拗に糾弾し続ける、安倍首相の例を見てみよう。長谷部教授は、安倍首相の改憲提案には、理由がない、と断定する。なぜなら「考え方の分かれるところではありますが、自衛隊を違憲としない政府解釈を受け入れている憲法学者は、私をふくめ数多くい」るからだという。そのうえで、長谷部教授は、安倍首相にとって「改正論議は国の利益のためではなく、おじいさんから受け継いだ自分の思いを実現するためのもの」だと断定し、「公私混同もはなはだしい」と述べる(24~26頁)。
しかし、本当に安倍首相は、憲法学者全員が自衛隊違憲論者だ、と主張しているのだろうか。というよりも、憲法学者の間で違憲か合憲か総意がない状態がもたらす不都合を解消するために、「改憲論争に終止符を打つ」ことが必要だと言っているのではなかったか。政策研究をやれば、わかる。解釈が曖昧であるがゆえに、政治や行政に壮大な無駄が存在している。総理大臣が、憲法解釈を確定させて、壮大な無駄を取り除きたいと考えるのは、それほど奇異な話ではないように思う。
だが長谷部教授は認めない。「少なくとも私が知る限り、憲法を変えるべきだ、といっている人たちは、その理由も必要性も、明確には示していない」と主張し、「安倍さん自身も、じつは憲法を変える意味がどこにあるのか、本当のところはわかっていないのではない」か、と言う(24,26頁)。
しかしわからないのなら、まずわかるための努力を、長谷部教授が、するべきではないだろうか?誰かを批判する際には、まず相手を理解する努力を払うのは、いわば社会人としてのマナーのようなものだろう。「憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっている」、などとブツブツつぶやく前に、まずはとりあえず耳を傾けてみたらどうなのか。
過去の著作からの焼き直しを取り除き、こういった一般論⇒結論の断定⇒侮蔑レトリック、の繰り返しの中から、しかし議論の流れを何とかつかもうとするならば、この本で長谷部教授が主張していることは、以下のように要約されるように見える。
1. 憲法学者以外の者は、憲法について語るべきではない。
2. 憲法学者は、「知的指導者」であり万能の「医者」である。
3. 憲法学者が卓越しているのは「良識」を持っているからである。
第一に、長谷部教授は、憲法学者ではない者が憲法を語っているという状況それ自体を、嘆く。
このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。……その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。(203-204頁)
もちろん一般論として、おかしな憲法論がはびこれば、おかしな事態が招かれるのは確かだろう。しかし「おかしな憲法論」とは「憲法の専門家ではない人たちの憲法論」のことだ、と一般論レベルで断定するのなら、理由を示すべきだ。少なくとも何か具体的な事例をあげるべきだ。しかし、長谷部教授は、まったく根拠を出さない。何も出さず、むしろレトリックにレトリックを重ねて、断定し続ける。
私がよく使う比喩ですが、私にはアイスクリームを食べる権利があります。しかし健康のことを考えて、アイスクリームは、食べるとしても一日一個だけにするというきまりを自分でつくっているとしましょう。……それと同様、国際法上は、日本には集団的自衛権があることになっている。しかし、自国の安全と国際の平和のことを考えて、日本としては憲法で、個別的自衛権しか行使しないことにしている、ということに何の矛盾もありません。(108-109頁)
だから何なのか?いったい誰が、アイスを二十個食べさせろ、と要求しているのか。集団的自衛権の違憲性の議論と、全然関係がない。それを言うなら、集団的自衛権合憲論は、食べる一個のアイスは、バニラでもチョコでも同じだ、と言っているに過ぎない。
長谷部教授は、茶化すような煙に巻く話だけをするのではなく、なぜ日本国憲法が集団的自衛権を禁止していると断言できるのかについて、真面目な議論を提示するべきだ。内閣法制局見解は変わってしまったのだ。いつまでも内閣法制局長官を取り換えたのが気にいらないといったことをブツブツ言いながら、ただアイスの話を繰り返すのではなく、「専門家」らしい精緻な集団的自衛権違憲の議論を発表するべきではないか?正直、アイスの比喩は聞き飽きた。
第二に、長谷部教授は、憲法学者を、憲法学者であるという理由で、称賛する。
憲法の専門家といわれる人々―主に憲法学者ですが―は、長年にわたって憲法をいろいろな角度から観察しているので、問題が単純でないことが分かっています。・・・憲法に限らず、法律学は、お医者さんの仕事と似たところがあります。お医者さんの仕事は、この病気にはこのクスリを処方すればいい、ですむことはありません。この患者さんにはアレルギーはないか、ほかに持病はないか、別のクスリを常時服用してはいないか、クスリが効かない特異体質ではなど、いろいろなことに注意する必要があります。……憲法の専門家の仕事もそうしたところが大いにあります。(204-205頁)
法律家は、医者のように振る舞うべきだ、という意見は、特に異を唱えるほどのものではない。しかしだからといって、ただ憲法学者でさえあれば、医者のように振る舞うことができる、と断定できるはずもない。本来、優れた医者であればあるほど、一方的に相手の意見を侮蔑したりせず、むしろ理解するための努力を最大限で払ったりするものなのではないだろうか。
言うまでもなく、憲法学者以外の者も、副作用に気を遣い、様々なことを気にかけているつもりだ。「憲法の専門家」だけが、物事を単純にとらえない高級人種だと主張するのであれば、その根拠を示すべきだ。
ひょっとしたら、むしろ憲法学者こそが、「憲法優越説」を振り回し、「法律家ではない者は相手にしない」、といった「単純」な態度をとりがちな人々だとしたら?憲法学者はあまりに卓越しているので、無知な者たちの会話を聞くことすら拒絶する、といった態度が、まさに「問題を単純」化する態度だとしたら?
しかし、長谷部教授自身は、もちろん憲法学者の卓説性を信じて疑わない。わざとらしく引用という形をとった、もったいぶった言い方で、長谷部教授は、次のように書く。
(シモン・サルブランさんによれば、)日本において憲法学者というのは、ほかの国にはない知的指導者としての位置を占めている、これはなかなかないことである。典型は樋口陽一である・・・。そうかもしれないと思うのは、イギリスにしてもアメリカにしても、ほかの国では、厳密な意味での憲法問題についてしか、憲法学者の意見が求められることはないということです。その点、日本は少しちがいます。厳密な意味での憲法問題でなくても、憲法学者はどう考えているのか意見を聞かれることがある。そこは他国と少しちがう、日本の特殊なところかもしれません。ですから、憲法のきらいな人からみると、憲法学者がいばりすぎだ、口を出しすぎだ、と頭にくることがあるのかもしれない。もっとも、自分だって目立ちたいのに、というただの嫉妬心からかもしれませんが。(198-199頁)
長谷部教授によれば、憲法学者が憲法以外のことを語るのは、憲法学者が「知的指導者」だからである。他方、憲法学者ではない者が憲法について語るのは、憲法学者に「嫉妬」しているからである。
この徹底した憲法学者絶対主義を肯定するために、長谷部教授は、第三に、驚くべき主張をする。憲法学者だけがなぜ「知的指導者」なのかと言えば、それは憲法学者だけが「良識」を持っているからだというのである。
たとえば憲法9条2項の「戦力」禁止規定で、自衛隊の保持は認められないのか、と疑問に感じる時が、「法の解釈が求められる典型的な場面」、つまり専門家としての憲法学者の専門性が問われる場面だ、と長谷部教授は主張する。そこで憲法学者は何をするのか?「良識」を働かせるのだという。日本が攻撃されても政府が何もしないのは「非常識なこと」である。「あまりにも良識に反します。」そこで憲法9条2項にかかわらず、自衛隊は合憲になるのだという。ということは、憲法学者ではない普通の人々が誰でも「良識」を働かせて、同じ結論に至るということなのかな?と思うと、そうではない。なぜなら「良識」にもとづいた「法の解釈」ができるのは、長谷部教授のような憲法学者だけなのだから(33-35頁)。
長谷部教授によれば、「良識」ある憲法学者でないと、毎日毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるらしい。放っておけばどうせ憲法学者以外の者は毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるので、「良識」を持った「法の解釈」ができる憲法学者が必要になる。
憲法学者とは、「良識」を持った「法の解釈」ができる者である。憲法学者ではない者とは、つまり「良識」を持った「法の解釈」ができない者のことである。
もし本当にそうだとすれば、長谷部教授が「憲法学者だけが知的指導者」であると信じることも、確かに何ら奇異なことではない。それは「良識」の問題であり、「常識」の話なのだから、一切、論証の必要もないと言わんばかりに振る舞うことも可能になってくる。
なぜ憲法学者だけが「良識」を知っているのか?と聞くのは、野暮である。憲法学者だけが「良識」を持っているという確信こそが、「良識」そのものなのであり、そのように信じない者は、つまり「良識」がない者なのである。
長谷部教授の『憲法の良識』は、日本の戦後憲法学が遂にたどりついた、ある意味で前人未到の到達点ではないか。憲法学の長い歴史でも、自己肯定と他者否定が、ここまでの境地に至ったという例を、私は知らない。
「知的指導者」にして唯一の「良識」人である「憲法学者」の方々は、今こそ「隊長」長谷部教授のもとに参集し、「これで憲法学者だけが良識を持ち、憲法学者だけが知的指導者であり、憲法学者以外の者は憲法を語ってはいけない、ということが明らかになりましたね!」、と言いあい、お互いを祝福しあうのだろうか。
今や日本の憲法学は、いよいよ本格的に、まさに世界で唯一の、他に一切類例のない、ものすごく特別なものになろうとしているのかもしれない。ひょっとしたら、「ガラパゴス」などという言葉では、足りないかもしれない。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年4月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。