​​自己分析不要論 〜 ドラえもんとホリエモン

高部 大問

自己分析で落ちる就活?

6月1日を目前に、ある大学生から「A社の面接に落ちました。 自己分析が足りなかったと人事の方に言われました」と連絡が入った。私は大学の就職課で事務職員として進路支援に従事しているが、6月1日は経団連の『採用選考に関する指針』に則る新卒採用企業の選考解禁日(学生に内々定を言い渡して良い日)であり、大学では就活生から朗報と悲報が舞い込むシーズンだ。風物詩という意味では悲報にも慣れているのだが、先の就活生からの悲報は奇妙に感じた。落選の理由が「自己分析」だったからだ。

自己分析とは?

そもそも、自己分析とは何だろう。就職情報会社大手の株式会社マイナビによれば、就職活動における自己分析とは、「自分の特徴や長所・短所、価値観を把握・分析することで就活での『強み』を見いだすこと」である。その手法はいまや多種多様で、 ジョハリの窓、 エニアグラム、マインドマップ、モチベーション曲線、 自分史、便利な診断ツールなど乱立している。当たり前の話だが、強みを見いだすのは他人ではなく自分自身であるから、自己分析の肝は、(自らを)自らが分析するという主語にある。分析の過程で他者の意見を参考にしたとしても、最終的に決断を下すのは自分自身である。

就活生の奇妙さ

ところが、自己分析ツールが発展すればするほど、それを活用する就活生は自分が主語でなくなり、手っ取り早い便利道具が与えてくれた強みを頼りに自分という人間を分かった気になってしまう。内々定を獲得するための必要作業として自己分析を捉えてしまうからだ。なかには、「自己分析の結果、○○という仕事が向いているということが分かり御社を志望しました」と面接で言う就活生もいるそうだ。

ここまで市民権を得た自己分析という四字熟語は奇妙である。それほどクリアに向き不向きが分かってしまう自己分析とは一体どれほど優れた便利道具なのか、一度で良いから見てみたい。便利道具で名を上げたドラえもんに言わせれば、「道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃない」のである。自己分析ツールが示す「向いている」は「ある仕事に必要な資質・能力を持ち合わせている」という意味だろうが、向いている会社に就職せよと誰が義務付けたのか。

一見すると「向いていない」道を敢えて選ぶのも進路選択としては「あり」である。浮いたり悪目立ちすることに注意を払えば、同質的な周囲の中で際立ち一角の人物になれる可能性があるかも知れない。色んな道があるはずだ。だが、多くの就活生は皆がやっているからと就職活動に取り組み、必要らしいからと自己分析に励み、向いていそうだからと意思なき方向へ歩いてゆく。それが良いことで幸せな道だと妄信して。

企業の奇妙さ

先の就活生の悲報に話を戻せば、企業の側にも奇妙さを感じる。「自己分析が足りなかったから落とした」とのことだが、企業は「自己分析が足りた状態」をどうやって判定できるのだろうか。落選者にもその理由をお教えいただけたその誠意ある御姿勢には感謝申し上げるが、落選理由を就職活動プロセスにおけるひとつの手段(HOW)に断定しないでいただきたい。企業が求めるのは活躍してくれる(であろう)人材。たとえ自己分析を経験していない就活生でも、活躍に必要なスタンスやスキルがあれば採用に至っている。したがって活躍可能性こそ企業が求める指標であり、自己分析の出来不出来は直接的には関係しないし、そもそも観察不可能である。

また、社会人時代に必要な強みが学生時代の自己分析でどこまで正確無比に見いだせるかも疑問が残る。山の登り方が幾通りもあるように、内々定の獲得の仕方にも様々なプロセスがある。「個性」や「多様性」を本当にお求めならば、尚更、自己分析なきルートで登ってくる就活生も採用されるべきだし、実際にはそうされているはずである。だからこそ、落選理由が自己分析というのは奇妙だ(本人に明確に伝達できない理由のため自己分析という言葉で誤魔化した可能性は些かも否定いたしません)。

大学の奇妙さ

大学人の立場から申し上げれば、「自分の強みはこちらでございます」などと安易に自分を規定し枠の中に収まろうとする人材を輩出しようとは思わない。引いたような冷めた評論家的態度の人材ではなく、前のめりで熱のこもったハードワーカーの育成に日々汗を流したいと思う。一方で、採用企業や就職情報企業が「自己分析」を共通言語として専門用語のように使われることに異議はない。ビジネス上の理由も多分におありだろう。自由にやっていただいて結構である。

だが、大学人も一緒になって「自己分析」を叫んでどうするのか。大学とは学問の場。学問とは今の常識を疑う(問う)ことからスタートする学びである。常識化している「自己分析」というきな臭いマジックワードの必要性を何故疑わないのか。何故すぐHOWから始めるのか。主人公は就活生自身だ。大人の指示に無闇に従わせてはならない。自己分析タックルは御免である。

自分を定義するのは誰か

「大した過去もないのに過去を振り返ったって何も出てこないんですけど」と就活生に言われることがある。日本で偏差値がトップクラスの大学生でも、だ。勉強・部活-サークル・アルバイトといった一般的な経験しかしていないことが不安なのだろう。であれば、自己分析はやらなければよろしい。怖くて出来ないと言うならば、試しに面接官やステキなビジネスパーソンにインタビューしてみるといい。「自己分析、してますか?」と。確かに、自らを表現する営みとして自己分析は幾らか意義があるだろう。自分の言葉を紡ぎ、言葉を尽くすのであれば。しかし、残念ながら現実はそうなっていない。

履歴書に踊る「強み」を示す言葉は「協調性」や「リーダーシップ」などありきたりなものばかりである。一体この国にはどれだけ調整力に長けた人物やリーダーシップに秀でた人物が居たのだろうと思わされる。他人のワーディングでコーティングしているのだから似通って当然である。自分の言葉でない言葉はすぐ剥がれる。就活生に人気の「スタバ」を世界に広めたハワード・シュルツ氏は「他人に自分を定義させるな」と述べている。「スタバ」で自己分析している学生諸君は、他人に自分を定義してもらおうとしていないか、一度作業を止めて点検してほしい。

いまでしょ

自己分析による過去の出来事の意味づけが人生に彩りを与えてくれることはあるだろう。新たなストーリーが浮かび上がり何かに使命感を感じる人もいるだろう。しかし、それは今じゃなくてもいい。今は、必死にもがき出来事をつくる時であってもいいのだ。ホリエモンの言葉を借りれば、「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」である。過去に目を向ける暇がある人間よりも、今この瞬間を懸命に生きている人間の方が幾らか魅力を感じる。さあ、自己分析をやめてみてはどうだろうか。

高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。