洗礼式で泣く幼児を叩いた老神父

喜怒哀楽という言葉があるが、その中でも「怒り」という感情は最も怖い。怒りを爆発させたゆえに、その人の人生が変わったという人もいるだろう。以下は、神に仕える聖職者が怒りを抑えきれなかった結果、生じた不祥事の話だ。

▲幼児の洗礼式(写真は上記のコラムとは無関係です)ウィキぺディアから

パリ郊外のシャンポーで幼児洗礼の式典中、幼児が大きな声で泣くので、洗礼を施す神父が幼児の頬っぺたを叩いてしまった。その時のビデオがSNSを通じて流れ、多くのフランス人がそのシーンを見て驚いたり、怒ったりしたという。

洗礼を担当した神父は多分、若い聖職者だろうと勝手に考えていたら89歳の老神父だったので改めて驚いた。人生の喜怒哀楽をそれこそ十分に体験した年齢だ。もう直ぐお迎えが来てもおかしくない年齢だ。その89歳の老神父がなぜ幼児を叩いたのだろうか。誰でも持つ疑問を当方も感じた。

老神父が所属する教区は22日、老神父に洗礼を施すことを今後禁止すると発表した。平信者たちの家族が老神父の顔を見ると怖くなって自分の子供を教会に近づけなくさせるので、迅速な対応が願われていたからだ。

ビデオを観ると、神父は幼児の顔を掴むと、叩く前に「静かにしろ」と厳しく叱咤している。教区側は「神父の行為は絶対に許されない」と指摘し、「自制心の損失」「神父は多分疲れ切っていたのだろう」などを挙げ、老神父の突然の攻撃的な行為を説明している。神父自身は幼児を叩いた後、自分が取った行為が間違っていたと幼児の親に詫びている。すなわち、突然、切れてしまったというわけだ。

担当教区の司教はその直後のインタビューで、「神父は幼児を静めさせようと願ったが、どうしていいか分からなくなり、ついつい手を出てしまったのだろう。神父の殴打はピンタと抱擁の間の行為だった」と説明し、神父が計画的に幼児を殴打したわけではないと、老神父に代わって弁明している。

幼児の立場からいえば、人生を始めたばかりの時、神に仕える神父に頬っぺたを叩かれた体験が今後の人生にどのような影響を与えるだろうか、とついつい考えてしまう。

同じ22日、児童ポルノグラフィの所持と拡大容疑で訴えられバチカン元外交官の裁判がバチカンで行われたが、元バチカン外交官は「ワシントン人事の命を受けたことがきっかけで一種の精神的危機に陥っていた」と説明、なぜ児童ポルノグラフィにはまりこんだかを説明し、自身の行為が不適当だったと認めたというニュースが入ってきた。バチカンは昨年9月、元外交官の職務を解任している。近日中に判決が下される予定だ。

上記の2例はたまたま6月22日に流れてきた出来事という意味だけではない。89歳の老神父の幼児殴打もエリート外交官だったバチカン元外交官の行為もいずれも自制心を失ってしまった結果だ。

元バチカン外交官は児童ポルノグラフィを集め、それを拡大することが教会の教えからも罪であることを理解していたが、「自分は左遷させられた」という思いに捉われた元外交官は怒りが湧き、正常な歩みから脱線してしまったのだろう。老神父も元バチカン外交官も普段は穏やかな人物だったと信じたい。何らかの切っ掛けで自制心(セルフコントロール)を失い、本人もビックリするような不祥事を犯してしまったケースだろう(元バチカン外交官の場合、左遷前に児童ポルノグラフィに走る何らかの性向があったかもしれない)。

「魔が差す」という表現があるが、怒りは最も魔が差す契機となる。人類最初の殺人事件、カインがアベルを殺害した事件も、カインが神から祝福される弟アベルの姿をみて自制心を失い、嫉妬と怒りから弟を殺害した。それ以降、怒りを抑えることは人間にとって容易なことでなくなった。

カインがアベルを殺害する直前、神はカインに「もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記第4章7節)と警告を発していた。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年6月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。