距離の近い森保監督
サッカー日本代表(男子)の新監督に森保一氏が就任した。無名選手から日本代表選手となるも「ドーハの悲劇」で初のW杯出場を逃した苦い経験、監督としてサンフレッチェ広島を率いJリーグで3度も優勝に輝いた華々しい経験。酸いも甘いも知る日本人だからこそ、日本人選手の能力を最大限引き出すことができる、そんな期待を込めた人事である。オリンピック日本代表(男子)の監督も務める森保氏には、年代間の融合などによる世代交代も大きなテーマだという。
就任を報じた各種報道では、森保氏の選手との距離の近さに対して、称賛や安心の声を多数耳にした。練習時は自ら選手に歩み寄り声を掛け、グラウンド整備など雑務を選手と共にする姿が映像とともに紹介されていた。たしかに、腕組みして強面で寡黙な指導者とは対照的である。だが、代表チームは仲良しクラブではない。果たして、指導者と選手の距離が近いことは最強の条件なのだろうか。
求められる「距離近き指導者」
今回のロシアW杯で、イングランド代表の監督を務めたサウスゲイト氏は、選手が宿泊するホテルの各部屋に選手毎のメッセージを書いた手紙を前もって忍ばせるというサプライズを施すほど、選手との距離を縮めることに努めた。それでも、優勝トロフィーに手を掛けることは叶わなかった(もちろん、指導者と選手の距離だけが問題ではないが)。
それなのに、いつの頃からか日本では距離が近いこと、言い換えれば「個別に対応してくれること」が良い指導者のお手本のように語られる。私は大学で学生の進路支援に従事しているが、「個別対応」は何かと感謝されるしリクエストされる。参考までに、『学校教育に対する保護者の意識調査2018』(ベネッセ教育総合研究所)では、「1クラスあたりの子どもの人数をもっと少なくする」という現在の教育改革の取り組みに賛成する保護者は74.4%である。つまり、大半の保護者は「個別対応」大歓迎だと言える。
個別対応以外の教育方法
我が子のことを思えば至極当然であろう。「個性」に目を向ければ向けるほど、「人はみなそれぞれ違うのだから対応もそれぞれに合った形で対応すべし=個別対応すべし」と早合点してしまう。一見論理的だし、個人個人に相対することは、疑う余地のない正義のように思える。対応者はやりがいを感じ、被対応者も悪い気はしないからだ。しかし、この個別対応という聖域を少し再考してみたい。
まず、「指導者-学習者」という関係において、学習効果を発揮するのは何も個別教育だけではない。教育方法を考える際、褒めるか叱るかという1対1の個人間関係の中で考えがちだが、たとえば学校のクラスの中でライバル視している仲間が尊敬する教師から褒められたとする。このとき自然に湧いてくる「嫉妬」も大いに学習効果を高めてくれる。文化祭などで皆とともに出し物を成し遂げた際の「集団的達成感」や、チーム毎で競うことによる「グループダイナミズム」なども同様である。
私事で恐縮だが、約1000名の全校生徒向け講演等の場合、普段光が当たっているお勉強ができる生徒たちの前で 、わざと普段誰からも期待されていない(と本人が感じている)生徒に真っ当な理由で光を当て称賛してみると、ピグマリオン効果(教師期待効果)の一端を感じられる。本人との個別面談で「いいね」と言うのでは意味がない。証人不在だからだ。そうではなく、評価の多様性を、普段評価されている者たちの目の前で突きつけることこそ意義があるのだ(事実、学校での良い子と社会での活躍者は必ずしもイコールで結ばれないので、優等生への警鐘効果もある)。
これは何も大袈裟な話ではなく、学校では体育などの「副教科」と呼ばれてきたサブカテゴリーが昔から担ってきた役割である。実際に、勉強はできなくとも他分野で評価を勝ち取る子は今も昔も多数いる。
余談だが、部活のアウトソーシングについて、私は上記のような評価の多様性という観点で、完全に外注することには反対である。普段は主に勉強で評価する先生が、部活では別の子を評価できるモノサシの多様化こそ、様々な子ども達の自己肯定感を高めるからである。普段の姿を全く知らない赤の他人が部活だけを見て評価を下すのでは、多様な子は育たない。
話を元に戻すと、個別対応だけが教育方法ではなく、集団教育だからこそ発揮される学習効果もある、ということである。
個別対応はあくまでイレギュラー
また、よくよく考えれば、全てがあなただけに向けられたあなた専用のオリジナルメッセージというのは、社会に出ればありえない話である。飲食店でのメニューも、市役所での案内用紙も、電車の電光掲示板も、どれが自分に向けられたメッセージかを読み解く必要がある。それこそが「学習」という積極的態度の出発点であり、個別にデリバリーされた内容でないと理解できない子どもよりも、校長先生が全校集会で話した内容から学び取る子どもの方が、サバイヴする力としては強い。
そこで、忘れてはならないのは、我々は集団生活がベースであり、個別対応はあくまでイレギュラーだということだ。たとえば勉強にどうしてもついていけないとか、メンタルヘルスに問題があるとか、そうした状況下のときに個別対応が実施される。イレギュラー対応はコストがかかるから、全員の子どもに四六時中個別教育は施せない。個別指導塾であってもそれは同じである(だからこそ、いつ何時も個別対応できる親という存在は子にとって貴重なのだが)。
もちろん、自動車教習所などのように個別対応で知識・技術を身につけないと命にかかわる分野などはある。その際たる例が病院であろう。病院に行くのは風邪や怪我などイレギュラーな非日常対応が必要なときのみであるからだ。
だが、そうした特別でない日常でさえ肉を切り分け口元まで持っていかないと食べられないようでは本人も社会も困るのである。『校訓を活かした学校づくりの在り方について』(平成21年 文部科学省)を覗いてみると、小中高約190校の校訓が掲載されている。たとえば「質実剛健」や「清く正しく」などの学校毎のスローガンである。これらを全てテキストマイニングしてみると、最も多く使われている単語は「逞しい」であった(約20%)。であるならば、いつまでも個別対応に依存せぬ自立した逞しい人間を育てねばなるまい。
指導者の仕事とは補助輪を外すこと
なにも難しい話ではない。例えば多くの子どもたちが愛好する「マンガ」は、一度製本されれば「あなた専用」にはカスタマイズされない。読めない漢字もあるだろうし意味のわからないシーンもあるだろう。調べたり戻ったりしながら読み手が勝手に読むものだ。同じ内容でも、受け取り方や解釈は人それぞれ異なる。ストーリーや演出にこだわれば、たとえマスをターゲットにした一律的なコンテンツであっても、きちんと個々人に届くという証拠である。
指導者の仕事には、「個性を見ること」と同時に、「個性を見過ぎない凛としたシビアさ」も含まれると思う。個別対応とは自転車に喩えれば補助輪である。社会という路上に出るならば、いつまでも補助輪を装着しておくわけにはいかない。
減らす方が健全
森保監督就任の報道からは「個別対応は素晴らしい!」という声なき声を感じたが、冷静に考えれば、個別対応は減らす方が健全である。個別対応する理由は、個別対応しなくて済むようにするためだからだ。個別対応はゴールではなく、個別対応依存から脱却するための一時凌ぎに過ぎない。
なんでもかんでも個別対応化すると社会的コストは莫大に掛かる。また、個別に対応してもらわないと生きていけないひ弱で貧弱な人間ばかりが育つ。私は学生時代に中国に留学していたが、日本の約10倍の人口に対して一人一人懇切丁寧に対応してくれる場面は殆ど経験しなかった。ただ、個別対応が少ないことによってある種の逞しさを彼らが身につけていたことも事実である。
手取り足取りから自立歩行へ。これが、指導者の目指す到達点ではないだろうか。過剰サービスは自立性を削ぐ負の側面があることを忘れてはならない。
耳を傾けるべき「事情」と解決すべき「問題」
教育関係者が個別対応に喜びを感じてしまうという習性が、「やめられない止められない」個別対応に繋がっている側面もあるが、それぞれの「事情」に完全個別に対応することが必ずしも仕事ではない。「事情」と「問題」は異なる。「事情」は言い値であり、なんとでも言える。
そうではなく、真に解決すべき「問題」は何なのかを見極めねばならない。注射を打ってくれと懇願する事情、生活保護を要求する事情、食べ物の好き嫌いを述べる事情、それらに耳を傾けることは大事だが、全てにフルカスタマイズで対応などできはしないし、できたとしてタフな人間が育つとも限らない。
サッカーも教育も、指導者の仕事は必ずしも距離を縮め寄り添い個別事情に対応することではない。個別対応はあくまでイレギュラーである。