「中国版ボストン茶会事件」反米主義で高まるスタバへの反発

酒井 直樹

僕は1996年から98年に米国シカゴ大学のビジネススクールに留学していた。それはIT革命の爛熟期で(その2年後にITバブルが崩壊することになるのだが)、米国経済はすこぶる順調で、街を歩く人も活気に満ちていた。その頃、すでに中国興隆の予兆はあったものの、未だに日本の対する尊敬の念は残り、「日本式経営っていいよね」というハーバード大学の作ったケースがMBA業界に出回っていて、それアメリカ人の先生から学んだりしていた。

そのケースは、いかにしてシャープがハンディビデオカメラで圧倒したか、シャープのシーズとニーズを繋ぎ合せる独特の社員家族主義、研究開発、生産ライン、営業のPDCAが素晴らしいとまさに「目の付けどころがシャープでしょ」と絶賛していた。

その頃には、すでに山一証券と北海道拓殖銀行が破綻していたので、日本的経営に関して僕は半ばシニカルに聴いていた。その結果は皆さまご案内の通りだ。シャープは、そして多くの日本企業は現場は優れていたが、経営戦略を間違えていた。中途半端な規模で堺に液晶と太陽光パネル工場を建設したが、メガファクトリーからギガファクトリーへの倍プッシュのチキンレースについていけなかった。

グローバル経済の本質がわかっていなかったとも言える。コアな部分だけ握るという村田製作所的な逃げ道もあったかもしれないのに。堺工場の低稼働率に引っ張られ、最後は台湾企業に二束三文で買い叩かれ、この間白物家電の工場閉鎖の記事が小さく新聞にのった。だからMBAの授業も神聖視しない方がいいというのが僕が得た教訓だ。

さて、そんな感じで、グローバル経済の胎動を間近に感じながら2年間米国に住んでいた。大学は市街地から離れていたので、週末には街に出ることが多かった。1500ドルで手に入れた20年落ちのGMのOldMobileというやたらガソリンを食べるアメ車に乗って。当時、居心地の良い個人営業のカフェがいっぱいあって、そのうちの一つ、ブロードウエイ(シカゴにもブロードウエイはある)のお気に入りの喫茶店に通っていた。内装が洒落ていて音楽もよく店主の店への愛着やこだわりを感じた。

ところが、ある時そこが取り壊されて緑色のマークの濃いコーヒーを出す店に変わってしまった。それがシアトル発祥のスターバックスという全国チェーンだとはその時はしらなかった。そのあとアメリカのどこの街に行ってもスターバックス一色だった。2年経って留学生活を終え98年に東京に帰ってきた時、スターバックスの紙コップを片手に歩くスタイルが日本の都心のビジネスパーソンの間で大流行していた。

正直僕はスターバックスコーヒーの癖のある濃いめのコーヒーは好きでは無いからなるべく飲まない。ドトールコーヒーの方がよほど美味しい。でも、みんな、味に惚れたのでは無くスタイルに惹かれたのだ。世界中の人が単一の種類のコーヒーを飲むのは明らかに間違っている。でもそういうことを言えない空気が世界を包み込んだ。

その後2000年からアジア開発銀行に転じて17年間アジアを飛び回っていたが、それはスターバックスのアジアへのスプロール化と重なる。タイ、フィリピン、インドネシア、そして4年前にはようやくインドのグルガオンという先端都市に出店を果たす。

ところが奢る平家は久からず。大変興味深いことに、グローバル経済の行き詰まりとともに、外国で同社の退潮傾向が観測された。マーケットハックによれば中国アジア太平洋の既存店売上比較が-1%だったそうだ。

しかも、中国アジア太平洋の既存店売上比較のうち来店客(トラフィック)が-3%と信じられない落ち込みを見せた。

その背景にあるのが、瑞幸珈琲(Luckin Coffee)という強力なライバルが登場したことだ。いわば民族系コーヒーショップの台頭だ。コーヒーナショナリズムといっても良い。

同社は5月にスターバックスに対して「独占的な行動を許さない!」とする公開質問状を送りました。これはある種の「炎上狙い」という風に中国では理解されているようですが、現在のスターバックスのマーケットシェアは高すぎるので軽率な受け答えをすると当局を刺激するリスクもあります。

僕としては、工業製品のように企画されたスターバックスを持ってスノビッシュを演出することは難しくなり、記号消費と世界標準化に世界の国民がそろそろ厭世的になっていることだと理解する。

今後、グローバル経済の盟友、ウエストコースト発のコーヒーショップが退潮していくことは否めないだろう。

少なくとも、無謬的なスタバ礼賛はなりを潜めていくだろう。