「プラハの春」50周年を迎えて

長谷川 良

旧チェコスロバキアで1968年、民主化を求める運動が全土に広がった。しかし、旧ソ連ブレジネフ共産党政権はチェコのアレクサンデル・ドプチェク党第1書記が主導する自由化路線(通称「プラハの春」)を許さず、ワルシャワ条約機構軍を派遣し、武力で鎮圧した。あれから今月20日で50年目を迎える。

▲旧ソ連軍のプラハ侵攻(米情報機関、1968年に撮影)

▲チェコの民主化運動のシンボル、バルラフ・ハベル氏と自筆サイン(1988年7月5日、プラハでハベル氏宅で撮影)

旧ソ連共産党政権の衛星国だった東欧諸国で1956年、ハンガリーで最初の民主化運動が勃発した。「プラハの春」はこのハンガリー動乱に次ぎ2番目の東欧の民主化運動だった。ドプチェク第1書記は独自の社会主義(「人間の顔をした社会主義)を標榜し、政治犯の釈放、検閲の中止、経済の一部自由化などを主張した。

チェコで「プラハの春」が打倒されると、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜したグスタフ・フサーク政権が全土を掌握し、民主化運動は停滞した。

しかし、劇作家のバーツラフ・ハベル氏(Vaclav Havel)、哲学者ヤン・パトチカ氏、同国の自由化路線「プラハの春」時代の外相だったイジー・ハーイェク氏らが発起人となって、人権尊重を明記した「ヘルシンキ宣言」の遵守を求めた文書(通称「憲章77」)が1977年、作成された。チェコの民主化運動の第2弾だ。

そして1989年11月、ハベル氏ら反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが“ビロード革命”だ。

プラハの春は、ドブチェク共産党第1書記を中心した党内の上からの改革運動だったが、ハベル氏らの民主化運動は知識人や学者たちの反体制派運動だった。チェコではハベル氏ら知識人を中心とした政治運動が、スロバキアではキリスト信者たちの信教の自由運動がその民主化の核を形成していった。チェコ民族とスロバキア民族の気質の相違がその民主化運動でも異なった展開となったわけだ。

当方は1988年、プラハ市モルドウ河沿いにあったアパートで初めてハベル氏にインタビューした。会見テーマは「プラハの春」20周年目だった。

ハベル氏の周辺は私服警察によって厳重に監視されていたこともあって、当方はかなり緊張したことを思い出す。約30分間ほどインタビューしたが、最後の質問の時、ハベル氏は、「自分は英語では十分に話せないから、チェコ語で答えるから、ウィーンに戻ったらチェコ人に通訳してもらってほしい」と語った。当方はハベル氏から自筆サインをもらうと、素早くアパートから離れた。ウィーンに戻ると、早速知り合いのチェコ人に頼み、録音したハベル氏とのインタビューをもう一度聞いた。

ハベル氏との思い出はこれまでも何度か書いてきたが、ハベル氏、ドプチェク第1書記と共に“プラハの春”を推進したイリ・ハイエク外相(当時)、民主化の精神的支柱、ローマ・カトリック教会のフランチェスク・トマーシェック枢機卿らとの出会いはやはり忘れることができない。ハベル氏がプラハ旧市街広場のフス像前でVサインをしながら市民に民主化を訴えていた姿を今でも鮮明に思い出す。

ハベル氏は民主化後、旧チェコ連邦の最初の民主選出大統領になり、旧チェコ連邦解体後は初代チェコ大統領に選ばれている。通算5年間牢獄生活を強いられたハベル氏はヘビー・スモーカーだった。それがハベル氏の健康を害したのだろう。2011年12月、75歳で死去した。

チェコでは冷戦後、神を信じない国民が増えた。ワシントンDCのシンクタンク「ビューリサーチ・センター」の宗教の多様性調査によると、チェコでは無神論者、不可知論者などを含む無宗教の割合が76・4%となり、キリスト教文化圏の国で考えられないほど高い(「なぜプラハの市民は神を捨てたのか」2014年4月13日参考)。

50年前、ドプチェク氏がやり遂げられなかった自由化路線をハベル氏らは引き継ぎ、実現した。その民主化プロセスで多くのチェコ国民が犠牲となった。チェコスロバキアは1993年1月、連邦を解体し、チェコとスロバキア両共和国に分かれた。両国とも現在、欧州連盟(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だ(「『チェコ連邦』の解体が決まった日」2017年8月28日参考)。

チェコでも冷戦時代を知らない世代が増え、自由を当然の権利と考える人が多くなった。プラハの春、ビロード革命を想起し、獲得された自由を大切に享受してほしい。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年8月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。