ノーベル平和賞と国際法の正義

篠田 英朗

今年のノーベル平和賞が、コンゴ民主共和国の婦人科医デニ・ムクウェゲ氏と、イラクのヤジディ教徒のナディア・ムラド・バセ・タハさんに決まった。ムクウェゲ氏については、日本で同氏の活動を長く支援している方もよく知っているだけに、本当に良かったと思っている。

参照:(IWJ)性的暴力ならぬ「性的テロリズム」~レイプ・サバイバーの治療専門家の闘い~① 米川正子 元UNHCR職員・立教大学特任准教授(2013年10月末日)

デニ・ムクウェゲ氏(Wikipedia:編集部)

一部では、南北朝鮮首脳が受賞するのではないか、トランプ大統領の受賞の可能性はあるのか、などといった話もあったようだ。しかし、ちょっと無理筋だ。そこで今回、ノーベル委員会としては、どこからも文句の出ない、とっておきの受賞者を選んできたようにも思う。今年の二名で、ノーベル平和賞も権威を保ったと言えるだろう。

私は学者なので、ムクウェゲ氏のような偉人には、尊敬の念を持つばかりだ。私は学者なので、運動をするのも苦手だ。ムクウェゲ氏を支援する運動をしてきた方々には、敬意を表するばかりだ。彼らに、一つの成果のようなものが出たことは、大変に素晴らしいことだと、素直に思う。

コンゴ民主共和国は、世界の数ある悲惨な地域の中でも、際立って悲惨な地域の一つだ。1960年代のコンゴ紛争は、脱植民地化の数ある悲惨なストーリーの中でも、特に悲惨なものだった。当時のダグ・ハマ-ショルド国連事務総長はコンゴをめぐって殉職したが、国連平和維持活動は、その後、30年近くの間、復活できないような大きな痛手を負った。

コンゴがザイールと国名を変えていた時代のモブツ大統領は、世界の数ある独裁者の中でも、際立って悪名高い腐敗した独裁者だった。どれだけの人々が迫害にあったのかわからない。コンゴの鉱物資源を食い荒らし、世界有数の大富豪となって、死んでいった。

1994年に80万人もの人々が虐殺されたとされるルワンダのジェノサイドは、日本でも有名だ。だが、ジェノサイド首謀者が当時のザイール東部に難民として逃げ込んだことから、1990年末からルワンダなどの周辺国を巻き込んだ「アフリカの世界戦争」がコンゴ民主共和国を舞台にして起こったことは、あまり知られていないのではないか。戦争に関連した死者は、よくわかっていないが、200万人とも言われる。

ナディアさんが悲惨な経験をしたイラク・シリアは、現時点での世界の紛争甚大地域だが、ムクウェゲ氏が献身的に活動してきたコンゴ民主共和国東部地域も、疑いなく近年の世界でも最も悲惨な経験をしてきた地域の一つである。

国連は2000年から新たな平和維持活動ミッションをコンゴ民主共和国に展開させている。「MONUC」から「MONUSCO」と名称を変えながら、コンゴ民主共和国の国連PKOは20年近く活動しているわけだが、いまだに最大規模の国連PKOであり、国連の威信をかけた活動の一つである。MONUC/MONUSCOに日本政府から要員提供をしたことはないが、困難な環境の中で勤務している日本人の文民職員はいる。

1990年代に設立された、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ刑事裁判所(ICTR)、そして21世紀の国際刑事裁判所(ICC)は、戦時下のレイプを重大な戦争犯罪とする国際法規範の確立に寄与してきた。コンゴ民主共和国は、重大な捜査対象地域である

MONUSCOの指揮下に入って南部アフリカ諸国がコンゴ民主共和国で行ったForce Intervention Brigade(FIB)は、史上初めて武装勢力を「無力化(neutralize)」する任務を国連安保理に付与された部隊として知られる。国連安全保障理事会は、武装勢力を「無力化する(neutralize)」という文言は、マリや中央アフリカ共和国に展開するPKOへの任務付与などでも使われるようになった。

ところが、これに対して、FIBなどは、過剰な軍事行使をする良くないものだ、といったことを言う人たちがいる。日本で、訳知り顔で、そういうことを言う人がいる。別にいろいろな意見があっていいと思うが、私としては、日本人がそう言うのは、気を付けたほうがいいと思っている。端的に、恥ずかしい。

今年に入ってからのFIBの削減には、大きな批判の声もあがっている。FIBは、日本の国内情勢の観点で論じたりするべき、のんびりした話題ではない。

日本では、安保法制の「駆けつけ警護」程度の話で、「戦前の復活だ」「いつか来た道だ」「軍国主義の到来だ」と、その場限りの思い付きの言葉を並べたてる人たちがいる。結果として、日本の自衛隊は、もう次にいつ国連PKOに部隊派遣できるかわからないところにまで追い込まれてしまった。日本は、PKOをほとんどやらない国になってしまった。

拙著『ほんとうの憲法』では、GHQ草案で存在していた「justice」が、「正義」ではなく、「公正」と訳されてしまったことについてふれた。そして、憲法前文における国際法との連動性は、不明瞭になった。日本の憲法は、「正義」を語らない特異な憲法典になった。9条冒頭に書かれた「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言までも、軽視されるようになった。

「正義」とは何か。 ムクウェゲ氏のような偉人ではない日本人であっても、時には考えてみたい。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年10月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。