「戦争調査会」はデモクラシーを問いかける

中村 伊知哉

井上寿一さん著「戦争調査会」読む。
1945年、幣原喜重郎内閣。敗戦の原因を解明すべく設けられた政府機関の試みと挫折を通じ、明らかにしたことの意義。
防衛省・モリカケの公文書管理で揺れる中、刊行された意義。

開戦と終戦の原因と責任は軍部の暴走に求められがちですが、この広範な証言と資料が示すのは、経済や技術を踏まえた政治の不存在であり、これに「デモクラシー」の果たした作用です。

幣原首相は、悪いのは「政治の運用」であり帝国憲法ではない、「戦後日本はデモクラシーと協調外交を展開した立憲主義国に戻ればよかった」と見ていたそうです。
一次大戦後の平和外交を牽引した幣原氏らしい見方。
だけどそうした政治の運用を呼んだものは何なのか。

一次大戦後の平和外交や政党政治は、同じく井上寿一「第一次世界大戦と日本」に詳しい。
経済的な国際協調を基調とし、大衆が消費社会を支えた時代。
これがなぜ開戦へと進んだのか、今もって大事な問題です。
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2014/12/100.html

軍縮会議、満州進出、三国同盟、対米交渉、独ソ開戦、南部仏印進駐。
戦争を回避する軍事・外交の努力も機会もあったのに、開戦に至った。
本書はそれを示します。
でも「たられば」で、各々の時点での対応が違っていたら、果たして開戦は回避できたのか?

政党が対立せず開戦回避で一致していたら。軍部の北進も南進も近衛内閣が食い止めていたら。国民政府を対手としていたら。対米交渉での要求を飲んでいたら。
回避できたものですかね?
歴史に再チャンスをもらっても、結果は同じだった気がします。

ミッドウェー、サイパン、沖縄、ドイツ降伏。
やめる機会も多々あったが、原爆投下やソ連参戦で無駄死にを重ねた。
でも「たられば」で、各々の時点での対応が違っていたら、果たして早期に終戦できたのか?
結果は同じだった気がします。

日露戦争後の「デモクラシー」と、それに共鳴する「メディア」。
開戦に突進していった理由は、軍部の暴走と政治の機能不全だけでなく、いやそれ以上に、その基盤をなした「民」の声があったのでしょう。
この本からはそれが透けて見えます。

もしそうだとすれば、幣原氏が言うとおりデモクラシーに仕組みを振ったとしても、デモクラシーは同じ結果を招き得る。
軍部や政党が抑制的でも、開戦に進み、敗戦を遅らせ得る。
未完の戦争調査会の帰結はそこにあるのではないか。

もしそうだとすれば、その教訓は、憲法による歯止め、シビリアンコントロールといった上部機構よりも、「教育」と「メディア」の成長、その下部の2機構が大事、ということではないか。

深読みが過ぎるかもしれません。
が、軍・政の不始末に責任を負わせる風評に対し、「戦争調査会」が示す広範な戦争観と井上さんの冷静な記述は、もっとこっち側、民衆側に語りかけていると感じた次第です。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2018年12月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。