沖縄で実施予定の辺野古基地を巡る県民投票が話題になっている。沖縄県の一部市町村が県民投票への参加を見送ったことから、これに反発する「辺野古」県民投票の会の元山仁士郎氏が宜野湾市役所前でハンガー・ストライキを行い注目集めた。
地域差はあるとはいえ救急・医療体制が整備されている日本でハンガー・ストライキを行う意味はなく「ドクター・ストップ」を期待しての行動と言われても仕方がないだろう。
氏の行動を「漫画的」と思った者も少なくないはずだ。
元山氏は「民主主義」という言葉を強調しているが市町村の「議会制民主主義」はどこに行ったのだろうか。氏が主張しているのは直接民主主義だけではないか。「民主主義」という言葉は強調し市町村議会の決定を「非民主」的であるといわんばかりの姿勢は支持できない。
さて、県民投票で問われているのは米軍基地の移転だが米軍基地そのものへの議論が深まっている様子はない。
日米同盟は米軍基地の存在を前提にしている軍事同盟であることは明らかであり、今回の県民投票を機会に改めて米軍基地の議論を深める必要がある。
「憎悪と恐怖」は併存する
米軍基地を論ずる際に「そもそも何故、日本に外国軍隊の基地があるのか」という意見が必ず出てくる。そしてそこから派生して「日本人は何故、戦争で米軍に虐殺されたにもかかわらず米軍基地を置くことを許しているのか」という意見も出てきてくる。
例えば評論家の古谷経衝氏は
普通の国家には、自国軍より強い外国の軍隊が、首都圏に駐留している時点で「国家が占領されている」事とイコールである。
と指摘している(1)。
では何故、我々日本人は米軍に虐殺されながらも戦後、米軍基地の設置を許してきただろうか。その理由は明快でアメリカが恐ろしいからだ。
アジア・太平洋戦争で我々日本人は軍民併せて310万人程度が死亡した。もちろん「中国戦線」があったのだから全てが米軍によって殺されたわけではないがそのほとんどは米軍である。
大日本帝国はアメリカに軍事的に完全に屈服した。だから戦後の日本人、特に「戦争体験者」がアメリカに恐怖を抱くのは当然ともいえる。一方でアメリカに恐怖を抱くことはアメリカへの反発、憎悪が消滅することを意味しない。「憎悪と恐怖」は容易に併存する。
人間なら誰しも「あいつは許せないが、しかし…」といった具合で歯ぎしりした経験があるのではないだろうか。もしないのならばそれは大変、幸福な人生を歩んできたといえるがそういう人間は例外だろう。
戦後「戦争体験者」の内、「保守」は「憎悪と恐怖」の葛藤の中、日米同盟を選択したとも言えるし「革新」は「非武装中立」を唱え、もちろんそれは完全な現実逃避だったが彼(女)らが現実逃避に走った理由はアメリカへの「憎悪と恐怖」があったに他ならない。
「大害なき矛盾」は受け入れられる
アメリカによる虐殺を経験していない国でも「外国軍隊が自国に駐留している」あるいは「自国を利用している」という事実が少なくない動揺を与えている。
ヤフーニュース「中立国・アイルランドにも米軍問題-米兵・弾薬載せた“民間機”が飛来」によるとアイルランドではアメリカの同時多発テロ以降、米軍が運用(借用)する武器・弾薬を搭載した民間機の離着陸を認めており、これに対して少なくないアイルランド人が「中立国として矛盾」と反発していると言う。
アイルランドの政治はよくわからないが外国人の筆者から言わせると「米軍が運用(借用)する武器・弾薬を搭載した民間機」を受け入れた時点でもうアイルランドは「中立国」ではないのである。
アイルランドが主張する「中立国」は単なるスローガンに過ぎず実質的意味はない。
百歩譲ってアイルランドを「中立国」と規定し、この問題を「矛盾」と判断したとしても矛盾とは「大きな害」がなければ案外、受け入れてしまうものではないだろうか。
「大害なき矛盾」は葛藤をもたらすかもしれないがその葛藤も受忍可能ならば問題はない。
事実上の米軍機の受け入れについて多くのアイルランド人は「矛盾」を感じつつもそれは「大害なき矛盾」に過ぎないからもう20年近く受け入れているというのが実情ではないだろうか。
戦後日本も同じことが言えよう。
本来ならば「自主独立」の立場にあるはずの「保守」が日米同盟を選択し米軍基地の設置を許し続ける姿勢は確かに「矛盾」しているが米軍基地の設置は大害はなくむしろ日本の平和に貢献している。
もちろん沖縄ではたびたび米軍兵士による不祥事は確認されるが大局的に見れば沖縄の平和に貢献しているのは間違いないし米軍基地により日本全体の平和が確保されることで「本土から沖縄へ」の各種補助金、交付金も保障される。
我々は「矛盾」に対して少し「潔癖」になり過ぎていないだろうか。安全保障政策は冒険・実験が絶対に出来ない分野である。「矛盾」に「潔癖」になり安易に米軍基地を撤去することは自殺行為に他ならない。
「平和に貪欲」であれ
戦後の日本人、特に「戦争体験者」は「憎悪と恐怖」の併存、「大害なき矛盾」という葛藤を抱えつつも「平和」を貪欲に求めてきた。
前記したように「保守」は日米同盟を選択し米軍基地の設置を許してきたし「革新」は「非武装中立」という奇形的なものであるが間違いなく平和を求めてきた。
しかし「戦後生まれ」は平和に貪欲だろうか。
平和に貪欲ならば「何故、日本に外国軍隊の基地があるのか」といった「些細なこと」は話題にならないはずだが、どうも「戦後生まれ」はこの種の議論が好きなようである。
「戦後生まれ」は当然、アメリカに対して「憎悪」と「恐怖」は生まれにくい。
特に「米軍による虐殺」は経験していないのだから「恐怖」が生まれることは考えにくい。
もちろん米軍基地周辺の「戦後生まれ」の住民が米軍兵士とのトラブルの結果「憎悪」抱くこともあり得るがアメリカという国そのものに対して「憎悪」を抱くとは考えにくい。
仮に「戦後生まれ」がアメリカに対して「戦争体験者」並みの「憎悪」を抱くとすれば
それは親族からの伝聞又は文章・画像・映像媒体を通じて米軍の情報に接したとき、要するに「他人が編集した情報」に接したときであり実体験に基づくものではない。
だから「戦後生まれ」のアメリカへの「憎悪」は観念的になりやすく「恐怖」による掣肘もないから憎悪はインフレ化し、ともすれば「忘却は、罪である」と言って得意になって攻撃してくる。
もちろん露骨に「憎悪」の姿勢を採る者は少数だろう。表向きは「平和主義者」「護憲派」「立憲主義者」を自称しているはずである。
彼(女)らは基本的には少数派だが少数派だからといって無視できる存在ではない。
日本人である以上、日本国憲法で保障された各種権利を最大限に活用して議論を破壊してくる。
「戦後生まれ」の日本人は戦争の悲惨さを完全に理解することはできない。かろうじて理解できるものもそれは「頭の理解」に過ぎず体に理解させることはできない。
今、我々日本人はこのことを真摯に受け止めたうえで「平和に貪欲」であるべきである。
そして「平和に貪欲」であれば沖縄の米軍基地が否定されないし、その「対価」として本土側も沖縄への経済的支援を積極的に行うだろう。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員
脚注
(1)ヤフーニュース個人、古谷経衡氏(2018年12月21日)「ローラさんの辺野古工事阻止 10万筆署賛同こそ、真の保守であり愛国者だ」