共産主義は他人事ではない
20世紀は人類史上、稀に見る「虐殺」が起きた世紀である。「虐殺」でもっとも知られているのはナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺だろう。大体において600万人程度が虐殺されたと言われている。ナチスへの嫌悪は著しく何年か前に女性アイドルが着たハロウィンの衣装がナチスの武装親衛隊と似ていたことからネット上で激しい抗議を招いた。
一方でそのナチスと「血で血を洗う」戦争をした旧ソ連の虐殺も忘れてはいけない。旧ソ連では2000万人程度が虐殺された(1)と言われ、更に旧ソ連と同様の政治・経済体制を採用した共産主義諸国でも前代未聞の虐殺が起きたとされる。
その総計は大雑把に言えば数千万人にも及んでおりナチスと比較して文字通り「桁違い」である。また「虐殺」ばかりが注目を集めるが、実際は死に至らない次元の人権侵害(拷問、長期拘束等)は膨大だったはずである。この「死に至らない人権侵害」を含めれば共産党による人権侵害の被害者は億単位に達していたと思われる。
両者の虐殺を比較した場合、ナチスの虐殺は多分にキリスト教文化圏特有の「反ユダヤ主義」が原因であり、無宗教がほとんどを占める日本人でこの反ユダヤ主義を理解できるものは少数だろう。
一方、共産主義は戦後日本の知的エリートの間で大流行し、いわゆる「進歩的知識人」を生んだ。政治の世界でも日本共産党・社会党左派は共産主義を支持していた。高度経済成長により共産主義の支持は少数派になったが共産主義を源流とする左翼・リベラル派は日本社会で一定の勢力を現在もなお形成している。
ナチスと共産主義の虐殺は双方とも理解しがたいが日本に反ユダヤ主義に相当する思想がないことから現在の日本人が虐殺を考えるうえで関心を持たなければならないのはナチスではなく共産主義の虐殺である。
なにしろ現在でも日本共産党が存在し、その組織力は野党随一である。立憲民主党はその結党経緯からして組織力が脆弱であることは明らかであり、今後の政局によっては日本共産党が「野党第一党」になる可能性は十分にある
ネオ・ナチと同レベルの日本共産党
日本共産党にいわせるとソ連は共産主義ではなくだからこそ崩壊したと言う。そして「真の共産主義」は日本共産党が担うものであり共産主義は決して色あせておらず「共産党」という党名も全く問題ないとも言う。
しかしどうだろうか。ソ連が共産主義ではなかったらなんだったのだろうか。「共産党」名義の政党が支配した国で「虐殺」が起きたにもかかわらずこの「他人事」の姿勢はなんなのだろうか。
「ソ連は共産主義ではなかった。日本共産党こそが真の共産主義である」とか「私たち日本共産党のめざす共産主義社会は、旧ソ連と中国とはまったく違います」
https://twitter.com/jcp_cc/status/1071540022870831104という主張はドイツのネオ・ナチが「自分達のナチスはヒトラーのナチスとは異なる」と主張するのと似ている
そして日本共産党の綱領を覗いてみると依然として「生産手段の社会化」が掲げられ、これを通じて「経済的自由」を規制し「平等」を達成するようである。
日本ではなんとなく経済的自由が規制されても政治的自由が保障されていれば自由社会は成立するといった風潮が強いがフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクが喝破したように政治的自由と経済的自由は車の両輪の関係にあり、どちらかが欠けたら「自由」は成立しない。
「平等」の名目での経済的自由の規制は大衆的支持を得やすいが、そもそも個人の日常の大半が経済活動である。我々は何かを生み出すために仕事をし日常を形成している。
経済的自由を規制することはともすれば日常を規制することに繋がり、それを通じて政治的自由が規制される可能性がある。
日本共産党は「生産手段の社会化」を主張するが「社会化」の名目で経済活動が管理され、その管理を通じて政治的自由も管理するのではないか。
日本共産党による「生産手段の社会化」を通じて個人の生活が管理される社会では誰も同党に逆らえないはずである。
日本共産党の主張を見る限りこの辺りの理解が相当に怪しく同党による「自由の侵害」の可能性は決して否定できない。
日本共産党の非合法化は不可能である
日本共産党に対して戦後は「保守」から「対策」が主張された。その具体的なものは破壊活動防止法であり、これに基づき公安調査庁は日本共産党を調査している。
しかし破壊活動防止法で最も期待されているものは「団体規制」であり要は日本共産党の非合法化(解散)である。破壊活動防止法自体、法律として使い勝手が悪く何よりも戦前の治安維持法の反動もあってかとても「団体規制」は実施出来なかった。治安維持法への嫌悪は今なおもあり、これが消えることはないだろう。
「保守」は旧西ドイツや韓国での共産党の非合法化の例を挙げ、その必要性を主張するがとても現実的とは言えない。また「団体規制」の理解も戦前とは異なっている。
大日本帝国はドイツ法学の影響により大陸法が主流であり、これが治安維持法の「結社罪」を制定させた。しかし戦後日本はアメリカの影響により英米法が主流となった。英米法では「結社の自由」は否定されず団体の活動は「共謀罪」による規制が普通である(2)。
このように治安維持法の反動、法思想の転換により現在の日本で「日本共産党の非合法化」は不可能である。
「政党法」の制定を
そもそも日本が民主主義国家である以上、相手の存在を否定するのではなく変革をただすことに重点を置くべきである。では「日本共産党対策」として「変革をただす」とは具体的には何なのか。それは日本共産党に「政党」としての「義務」を課すことである。
日本共産党は「民主集中制」を採用し、これが「独裁肯定」の一因になっている。
また同党が主張する「自衛隊の解消」は安全保障論議を混乱、停滞させ「侵略の呼び水」となっている。だからこの二つの是正を法的に義務づかせる。
具体的には包括的な「政党法」を制定し「政党」を法的に定義する。現行法ではいわゆる「政党助成法」で「政党」が法的に定義されているが、同法はあくまで政治腐敗の防止を趣旨に制定されたものに過ぎず政党の安全保障上の義務は定めておらず甚だ不十分である。
そこで包括的な「政党法」を定め党首は自由民主党のように定例の公開選挙によって選出することを義務づかせ、また「自衛隊の解消」を主張する政党には政党単位での国政選挙への参加を認めない。要するに比例票を与えない。
党首が定例の公開選挙で選出されれば「党内民主主義」が保障され「独裁」とは無縁の政党になるし「自衛隊の解消」を主張することによって比例票が得られないのならば選挙区選出の国会議員が衆参ともに一人ずつしかいない日本共産党は「自衛隊の解消」を放棄せざるを得ないはずである。
我々、日本国民は自由と人権を守るために政党に「党内民主主義」と「自衛隊の解消の放棄」を求めることは許される。これは自由社会を守るための必要最小限の要求であり誰も傷つかない。血は一滴も流れない。政党法の制定は日本共産党を民主的で現実主義の政党に変革させるだけである。
「政党法」は例えるなら日本共産党の「牙」を抜く法律である。
そしてこの程度の義務すら日本共産党が拒否するならばやはり時代錯誤的な「革命政党」であり「民主主義の脅威」と言わざるを得ない。
脚注
(1) 「共産主義黒書〈ソ連篇〉」19頁 ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト 外川継男訳 2016年 筑摩書房
(2) 2017年4月27日 産経ニュース
本記事で「大陸諸国の多くは組織犯罪に対しては『徒党による合意』ではなく『犯罪組織への参加』自体の刑事責任を問う」と紹介されている。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員