金正恩氏は知っていたか

長谷川 良

米バージニア大の学生、オットー・ワームビア氏(Otto Warmbier、22)が2017年6月19日、地元の病院で死亡した。ワームビア氏は観光目的で北朝鮮を訪問し、政治スローガンが書かれたポスターを剥がして持ち帰ろうとしたところを拘束された(2016年1月2日)。裁判で15年の「労働教化刑」を言い渡されたが、昏睡状態に陥り、同年6月13日に解放され、米国に帰国していた。

▲22歳で亡くなった米学生オットー・ワームビア氏(ウィキぺディアから)

ワームビア氏の両親によると、「息子はボツリヌス菌の毒素による中毒で体調を崩し、睡眠薬を服用後に昏睡状態になった」と説明したが、米国の医師は、「ボツリヌス菌による中毒症状は見られなかったが、ワームビア氏は脳のあらゆる部分の組織が大きく損傷し、呼吸停止で脳に酸素が行き渡らない症状だった」と述べている。

当方はこのコラム欄で「北朝鮮は22歳の若い米学生に対し、何らかの細菌やウイルスを使った生物兵器の実験をした。学生が昏睡状態に陥ったことを受け、米国側からの強い要求もあって帰国させた。狙いは、米国側に北の生物兵器のレベルを知らせることにあったのではないか」と書いた(「平壌発『米学生の死』の謎解き」2017年6月24日参考)。

トランプ米大統領は当時、「非人道的な残忍なやり方」と厳しい語調で北側を批判した。そのトランプ氏は今回、学生の家族の要請もあってハノイで金正恩氏に直接事件の真相を聞くと、金正恩氏は、「事件を知らなかった」という。記者団の質問を受けたトランプ大統領は、「金正恩氏の説明を信じる」と答えている。

このトランプ氏の発言が流れると、死去した学生の家族ばかりか、多くの米国民からも批判の声が出た。家族関係者は、「息子は北によって殺害された。その指導者が知らなかったということは考えられない」と主張し、金正恩氏の「知らなかった」という返答を鵜呑みにしたトランプ氏を批判した。

トランプ氏は多分、「金正恩氏は知っていた」と考えていたが、相手側(金正恩氏)を配慮してそのように答えたのだろうが、家族関係者が怒るのは分かる。我々は、「金正恩氏は北朝鮮の最高指導者であり、独裁者だ。彼が国内外の重要な出来事を知らないはずがない」と考える。それでは米学生の死去は金正恩氏にとって重要な出来事ではなかったので、「知らなかった」のだろうか。金正恩氏は事実をよく知っていたが、「知っていた」と答えることができなかっただけだ。面子のためではない。「知っていた」といえば、北朝鮮が不法な犯罪集団ということを認めることになるからだ。

金正恩氏だけではない。父親・故金正日総書記も日本人拉致事件の真相を問われた時、訪朝した小泉純一郎首相に対し、「私は知らなかった。一部の特殊工作員の仕業だった」と答え、関係者を処罰することを約束した。事実は、金正日総書記の命令で拉致事件が起きた。一部の不法な工作員の勝手な犯罪ではなかった。

金正恩氏の異母兄、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で劇毒の神経剤で暗殺されてから今年2月で2年が過ぎたが、事件は金正恩氏の直接の命令で起きた暗殺事件だ。同氏の命令を受け、北の対外工作機関「偵察総局」が暗殺計画を立案した、と見てほぼ間違いない。金ファミリー関係者の暗殺は金正恩委員長の承諾なしでは不可能だから、異母兄殺しの最終的責任は金正恩氏にあることは明らかだ。彼が金正男氏暗殺事件を知らなかったということは、絶対にあり得ない。

都合の悪いことが発覚し、それが外部に漏れた時、北の独裁者は常に「私は知らなかった」と答えてきた。米学生の件でも金正恩氏はその北の伝統を継承しただけだ。金正恩氏は知っていたのだ。

次は、北の独裁者は全てを掌握し、知っているだろうかだ。彼が知らない国内外の重要な出来事はあるだろうか。金正恩氏は夜遅くまで関係省から送られきた書類に目を通しているという。明確な点は、ホワイトハウスでの執務時間が1日5時間余りと、歴代大統領の中では飛び抜けて短いトランプ氏より、金正恩氏は長時間、働いているだろう。ちなみに、トランプ氏の場合、毎朝、情報機関から前日発生した国内外の情報をまとめたメモを受け取る。1枚の時から数枚に及ぶ時もあるが、10頁を超えることは少ないだろう。読むのが苦手なトランプ氏に100頁の報告書をみせたとしても、読まれないことを関係者は知っているからだ。

金正恩氏の場合、彼が命令し、その結果の報告を受け取る、といったパターンが多い。彼が現地視察した場合、関係者は彼を取り巻きながら、彼が話す内容をメモしている姿をよく見かける。全ては彼から始まり、彼の指示を受け、彼の感想を聞き、それを現場で実行する。彼が知らないこと、彼が報告を受けていないことが発生した場合、関係者は厳しい処罰を受ける。北朝鮮は通常の国家ではなく、一種の家族構造だ。その指示構造はトップダウンだ。

金正恩氏は、米学生の死去、なぜ死んだのかも知っている。彼が命令し、その命令を実行した関係者から逐次報告を受けてきたはずだからだ。ただし、「米学生の死去を知らなかった」と答えた金正恩氏の返答をトランプ氏が信じたというニュースはひょっとしたら事実かもしれない。トランプ氏は米国内外の出来事を全て知っている大統領ではないし、本人も全て知りたいと考えている大統領ではないから、金正恩氏が「知らない」と答えたならば、トランプ氏はその発言を鵜呑みにするかもしれない。

北では「首領様は全てを知っている」という前提で機能している国だ。トランプ氏が議会で大統領選のロシア介入問題で追及された時、「自分は知らない」と答え、返答をぼかすことはできても、金正恩氏は、「自分は知らなかった」とは絶対に言えないのだ。その金正恩氏が今回、トランプ氏の質問に、「知らなかった」と返答したのは、「私もあなたと同じですよ」というシグナルが含まれていたのではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年3月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。