百田尚樹氏の『日本国紀』について朝日新聞紙上で『応仁の乱』が大ベストセラーになった呉座勇一氏が猛烈な批判を行いそのなかで百田尚樹氏が『日本国紀』で非常に多くのユニークなヒントを得ているとみられる井沢氏のことを揶揄した。
それに対して『日本国紀』の「監修」(通常の意味の監修なのかといえばそうでもないのだが百田氏はどういう役割かを説明しているので問題はない)をした久野潤氏がiRONNAで反論し、それに対して呉座氏がアゴラで再反論した。
私も両者の中間的な立場から論評を加えた。そして、私は近日に発売予定の『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(パルス社)でかなり詳しくこの論争について論じている。
この論争について百田氏はほとんど語っていないが、こんどは、井沢元彦氏が「週刊ポスト」で反論を公開質問状として出した。『井沢仮説を「奇説」「歴史ファンタジー」と侮辱する歴史学者・呉座勇一氏に問う』というものだ。
井沢氏はこの公開質問状の中で、梅原猛氏によって提起された「異業種交流」によって「学者バカ」に歯止めをかけるということの重要性を指摘し、そのような理念を実現すべく設立した国際日本文化研究センターの助教である呉座氏がそういう理念と正反対の立ち位置にあることを糾弾している。井沢氏は良いところをついているが、呉座氏が「梅原さんなんて過去の人だから知らねえよ」というならそれまでだ。
呉座氏が井沢氏や百田氏が最近の学説を踏まえていないと批判したことについても反論しているが、私は『日本国紀』が最近の研究動向について勉強不足なのはそのとおりだが、「最近の研究動向」が世間で受け入れられているとはいえないときにまで、それを前提にするべきかは躊躇があるし(百田氏は専門の学者の常識でなく世間の一般的理解を対象に論じているのでそれがいけないとはいえない。専門家は専門家外にも認められるように努力して欲しい)、まして、井沢氏の以前の著作まで同列に一緒にして批判するのはやりすぎだ。
そして、井沢氏は「安土宗論八百長説」、つまり、信長の前で浄土宗と法華宗の間で行われた宗論について信長が最初から法華宗を負けさせるつもりだったという通説が自分の問題提起をきっかけに学説も修正されたことを指摘しているが、これには一理あるだろう。
一方、古代の時代区分についての通説について、宗教的理由の可能性を無視している学者の態度を批判しているのだが、ここについては、井沢氏が呉座氏に問いかけても仕方ないような話で、なぜ井沢氏がこれを持ち出したか私には理解できない。
私は一般論として、日本人がまっとうな歴史書や伝記、回顧録でなく文学や作家の作品を通じて歴史を知りたがる傾向が異常に強いのはかねてより批判してきた。かつて首相就任以前の小泉純一郎氏が、歴史は小説で勉強していると堂々といっていることを厳しく批判したこともある。司馬遼太郎など読めば読むほど歴史の真実から遠ざかるだけだ。
しかし、歴史学者にも問題はありすぎる。たとえば、出雲では遺跡があまり発見されずに記紀においては出雲が重視しているが、それほど重要な地域でなかったのではないかというのが「通説」になっていたのが、遺跡が二つほどみつかったら、記紀の位置づけ以上の重要地域に昇格なった。
とはいえ『記紀』であのくらい重視されているのだから、かなり重要な古代の中心地域だっただろうと一般の人は、通説がどうなろうと思っていたわけで、その常識の方が専門家の通説のほうが正しかったのである。
ところが、彼らが「確実」と評価する資料がないからといって偏屈にほとんど断定的に否定したりするから、世を惑わすのである。
そして、仲間内の通説なるものを、あまり確実なものでなく、将来において変わる可能性も高いというように世間には話して欲しいし、新発見を度を超して大発見などと言わないで欲しいと思う。
また、旧石器時代の遺跡捏造にみられるように、専門家集団の眼力も限界があるとか、過去や大御所的大先生の発見でかなり怪しいが、学界での勢威がゆえに健在なうちははっきり否定しないなどということも多いのではないかと思う(呉座先生ご自身は最近の本郷和人氏との論争にも見られるようにそういういい加減な権威としっかり戦う力と勇気がある方だと思うがみんなそうではない)。
古代の天皇の諡号は教えないとか、任那の名を韓国に迎合して教科書から消すとかいうのも、専門の学者が勝手に決めるべき問題ではない。
専門家への不信にはそれなりの理由があるのであるし、そこを崩すきっかけは、しばしば、在野の愛好家、作家、まったく他分野の専門家の指摘なのである。
そういう意味で、呉座氏のようにとんがった議論もいいが、研究者も場合によっては、素人や他分野の専門家の意見も前向きに受け止めていただくことも大事でないかと私は思う。
そういう意味で、『日本国紀』がここまで日本人から歓迎されたかも、前向きに受け止めて欲しいものである。そこには、正統派の歴史学者の著作にないが、国民が求めているいろんなものがあるのだと思う。
また、『日本国紀』をめぐる論争が、姿勢論にばかり集中しているのはいかがかと思う。
『日本国紀』は、ベストセラー作家が愛国的心情にもとづいて、自分なりの日本通史を書きたいと思ってやや準備不足のまま本にしたら、ある種、日本人がこれまでの歴史書にもっていた不満に合致し、そして、百田氏の作家としての能力と出版社の巧妙な宣伝のおかげでよく売れたというだけのことである。
私はさすがに『日本国紀』というタイトルは世を惑わすものだと思うし、呉座氏も「『百田尚樹の痛快!日本史講義』みたいなタイトルだったら、私はわざわざ朝日新聞で批判しなかった」と仰っている。
であれば、売れたからといって著作態度が安直だとか、監修という言葉が普通と違うとか、井沢氏の著作は学者から見て価値がないとかいう姿勢論でなく、百田氏の書いていることのどこが間違いだから信じないようにという指摘をする方に努力を傾注することのほうが生産的なように思える。
週刊ポストは呉座氏の反論を掲載するかもしれないが、そんな大きく扱うかは疑問だ。世間の人にとってあまり興味がわくかは疑問だからである。
呉座氏はFacebookで「週刊ポストに連絡をとり、私が反論記事をポストに載せる権利がある旨を確認致しました」と書いているが、『週刊ポスト』は井沢氏のそのものをつり広告などにも出してないようだから、あまり熱が入っていないようなのである。