アゴラでもここ最近、取り上げている「官邸 VS 記者クラブ(≒望月衣塑子)」問題だが、マスコミ関係者らがきのう(3月14日)、安倍政権に対し、『「知る権利」を奪う首相官邸の記者弾圧に抗議する』と称して、抗議デモを首相官邸前で行ったという。
そして、騒動のど真ん中の当事者である望月記者もこのデモに参加。バズフィードによると、ペンからマイクにもちかえ、次のように訴えたという(リンク先動画の1:30:56〜1:42:25)。
「いち記者の質問の背後に、会見に参加できない多くの声なき市民や記者たちの思いや疑問があることを全く想像できていないのか。愕然としました」
「官邸会見が政府にとって都合の良い広報の場と化していないか。1年半以上にわたって見続ける中で、日々私が感じていることです」
そしてこのレポート記事を配信したバズフィードジャパン編集長の古田大輔氏は、デモが「画期的」だったと(ポジティブに?)評価。さらには安倍政権の対応が「取材制限」だとして、マスコミ各社が危機感を抱いていることの表れなのだという。
アゴラの愛読者の多くは、私と同じく冷ややかに見ているだろうが、冒頭でもリンクした声明文にもあるように、彼らの怒りの発端となったのは菅官房長官が望月記者に対し、「あなたに答える必要はない」と突き放したことだ。彼らは望月記者に対する政権の対応が、「弾圧、ハラスメント(いじめ、嫌がらせ)」だと主張しており、第二次大戦中のメディア統制を引き合いにまで出しているが、安倍政権は本当に戦前の日本や中国や北朝鮮のような独裁国家レベルの対応をしているのだろうか。
確かに、安倍政権はメディアコントロールが民主党政権より巧みで、情報戦も強く見える(ド低迷が続く野党に比較して一層)。毎年のように首相が交代するような、ひと昔前の日本政治なら「モリカケ」級のスキャンダルが出てくるだけで、倒されていた可能性は高い。
ただ、それは裏を返せば、すでにモリカケが報道できるだけで日本は、少なくとも中国や北朝鮮より報道の自由がある。
そもそも、官邸と記者クラブの関係がおかしくなったのは、社会部所属の望月記者が、取材文化の異なる政治部記者たちの「サークルクラッシャー」だったことに過ぎないのではないか。挑発や罵倒、アジテーション、自己主張も辞さず、犯罪者を追い詰める社会部的な取材手法でかき乱し、良くも悪くも戦前から続く政治部の取材慣習を破壊したのだ。
きのうオンエアした言論アリーナでも、丸山穂高衆議院議員が指摘していたように、官房長官が貴重な公務の時間を使って記者対応をしている中で、彼女が質問時間を半ば占拠することで他の記者たちの取材時間を奪ってしまっている側面もあるだろう。
読売や産経はともかく、安倍政権嫌いの朝日や毎日でも政治部の記者たちの全員が本当に望月氏のKYぶりに全員同意しているのだろうか。
誤解してもらっては困るが、私が望月記者らに厳しいことを書くのは安倍政権擁護のためでは全くない。沖縄問題については私は左派野党と観点こそ異なるが政権に苦言を呈している。それに、望月記者の「新規参入」によって、旧態依然とした予定調和を崩して何かが生まれるのであれば、「実験」として少しは意義があったかもしれない。
現在の政治部の記者たちの取材慣習にもおかしなところはある。パソコン時代になり、質問することよりもタイピングマシーンと化す記者たちの姿を見ていると、文字起こしアプリやAIでも任せられるはずの仕事に注力し、その場にいるからこそ表情や空気の異変を察知できる機会をみすみす逃している政治部の取材方法には疑問もある。
しかし、裏を返せば、記者会見など「予定調和」の表舞台に過ぎないとも言える。これは社会部でも政治部でも同じだが、記者会見のようなオープンな場で特ダネを奪い合うことはあり得ない。
本当に安倍政権を倒したいのであれば、望月記者は官邸会見などに出ず、モリカケの舞台になった愛媛なり大阪なり、あるいは首相のスキャンダル探しで地元の山口なりを地道に歩いて、調査して発掘してファクトをぶつければよい。ド級の特ダネなら政権の屋台骨を本当に揺るがせるかもしれない。
だから不思議なのだ。むしろ彼女が2年近くも「不毛」な記者会見に出続けている意味がよくわからない。地味にコツコツやるよりスタンドプレーに出ることが目的なのか。「出版やテレビに出て有名になりたいからでは?」とか邪推が聞こえてしまうのも仕方あるまい。それどころか官邸前にデモまでして、演説する姿を見せられては、政治家に転身するためのアピールに思えてしまう。
望月記者はさっさと記者を辞めて政治活動をはじめて立憲民主党から出馬すればよい。記者クラブ員の立場を悪用して、官房長官の前でアジるなど、政治活動のステルスマーケティングだ。正々堂々とリングに上がって自民党と闘え。望月記者の「ステマ」を拡散してるメディアもその自覚も内省も全くない。デモで「立ち上がる」などと大仰なことをやるより、もともとやれることがあるのに、やっていないことがあるのではないだろうか。