前者の意味は実に単純明快、憲法を改めることだ。では、後者の意味は何か。広辞苑によると「憲法を擁護すること」「立憲政治を擁護すること」の二つの意味がある。
この二つの意味は、日本国憲法第99条(憲法尊重擁護の義務)に通じるものだろう。つまり、権力分立主義に立脚する憲法を守り、それを基礎として行われる政治を守る、ということだ。それは、憲法が保障する国民の自由や人権を擁護することに帰結する。
ここで分かることは「護憲」の主体は国民ではなく、あくまで為政者である場合が多い、ということだ。故に、為政者は憲法改正を発議できる「護憲派」である。
巷で良く耳にする「護憲派」という言葉は決して「非改憲派」を意味するものではない。憲法を改めることに反対ならば、ぜひ、「非改憲派」と自称していただきたい。そして、憲法を変えないことによって生じる弊害や矛盾に少なくとも逃げずに向き合うべきだ。そして何より、「改憲派」を「敵」だとは思わないでいただきたい。
たしかに「非改憲派」と「改憲派」は根本的な違いは大きい。だが「改憲派」であったとしてもその実態は三者三様だ。
「改憲派」は「加憲」「護憲的改憲」「立憲的改憲」「平和的改憲」等といった「看板」を掲げる癖がある。では、それらの意味は何か。
まずは「加憲」だ。これは公明党が盛んに用いる言葉だ。同党は先般行われた衆議院議員総選挙の公約で、日本国憲法について「優れた憲法」と評価している。そして「『国民主権』、『基本的人権の尊重』、『恒久平和主義』の3原理は普遍の原理であり、将来とも堅持」する姿勢である。
その上で「憲法施行時には想定できなかった課題が明らかになり、憲法規定に不備があるためそれを解決できないのであれば、そのための新たな条文を付け加えること(加憲)によって改正することを考えています」と明記している。
次に「護憲的改憲」だ。この意味について、ジャーナリストの松竹伸幸氏は『改憲的護憲論』(集英社新書、2017年12月20日)において「憲法前文と九条の平和主義を評価しつつも、いまの文面のままでは不都合なことがあるので、平和主義の精神を継承、発展させるかたちで最小限の改憲を容認する立場と定義できるでしょうか」(5頁)と推察している。
ちなみに、松竹氏が言う「改憲的護憲」とは「改憲論に共感することも多々あるし、憲法九条には文面として不都合なことがあるのは認めるけど、結論としていまの文面のままで行くことを選択しようという立場」(5-6頁)と自己流に定義している。このような立場は東京大学大学院教授の井上達夫氏が言う「修正主義的護憲派」であり、明文改憲では無いものの実質的にはいわゆる「解釈改憲」をしている「改憲派」の一つである。
さて「立憲的改憲」という言葉は、立憲民主党の山尾志桜里衆議院議員が、2017年11月22日付「日経ビジネス ONLINE」において用いている。山尾議員はその意味について「立憲主義を貫徹し、その価値を強化する」と述べている。
また、憲法9条に関しては「憲法に『自衛隊』の3文字を明記することではなく、国民意思で『自衛権』に歯止めをかけること」が重要とした上で、「2014年7月の閣議決定までの『武力行使の三要件』、いわゆる武力行使の旧3要件に基づいて、自衛権の範囲を個別的自衛権に制限することを、憲法上明記すべき」と自身の考えを語っている。
このような考えは第197回国会(臨時会)の代表質問において、国民民主党代表の玉木雄一郎衆議院議員も述べている。具体的には「自衛権の範囲を憲法上明確にし、平和主義の定義を国民自身によって行う平和的改憲の議論を行っていくべきだと考えます」と述べている。このような「平和的改憲」について「立憲主義に魂を吹き込む正しい改憲の方向性だと考えます」
以上、様々な「改憲派」について見てきた。それらは現行憲法を大いに評価し、尊重する意味合いを「加憲」「護憲的」「立憲的」「平和的」という言葉に込めているように思う。
では、このような「〇〇的改憲」という言葉が今日、なぜ散見されるのだろうか。その根本には従来の「改憲派」のイメージがこびりついているように思う。そこから連想される言葉はいわゆる「右翼」だ(本来はこのような十把一絡げ的な表現は避けたいが、ここでは便宜上用いる)。
日本における従来の「改憲派」はいわば「保守的改憲派」だ。その意味は、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって現行憲法の草案が作られたことによって、それまで日本に根付いていた「伝統」や「価値観」が損なわれてしまったからそれを取り戻すための改憲、と考える。つまり、現行憲法の一部分について、あまり良い印象を持っていないのが「保守的改憲派」である。
そのような「王道」とも呼べる「改憲派」が元祖であった以上、憲法のある条文について改正の必要性を感じる人は「改憲派」と自称しようものならば、「右翼」「軍国主義」「ナショナリスト」「戦前回帰」という、決めつけ、思い込み、レッテル張りをされてしまうではないか、という不安に駆られているのではないだろうか。
また、そのような従来から言われている改憲の立場との違いを強調して差別化を図るために「加憲」と言ったり、「改憲」の前に「護憲」や「立憲」「平和」という耳障りのない言葉を加えたりしているように思う。
これらは本来、余計な言葉であり、一種の誤魔化しにさえ思える。自身の気持ちを「改憲派」に押し込めることが出来ず、どこかに未練があるように感じる。正々堂々と「改憲派」を名乗れない人には「虚栄心」が見え隠れする。
政治的な意味合いとしては、「自主憲法制定」を党是とし、憲法改正を積極的に進めようとしている与党・自民党の「別働隊」と思われたくないだけであろう。猫を被っていては、党のアイデンティティを否定し、自身に嘘をつくことになる。
何人も憲法を変える立場に立つのであれば、いつ、どの条文を、どのように、なぜ変えるのか、ということを明示していただきたい。また、憲法改正を国政上の一つの課題と捉えたとき、その必要性及び緊急性を鑑みる必要がある。
そのような意味で言うと、憲法改正は時期尚早である。また、9条に関しては、2項を削除し、軍を保持して戦力統制規範(文民統制、国会の民主的統制、軍法会議の設置等)を明文化すべきと考える。それは、憲法の役割である授権規範及び制限規範を設ける改正である。
最後に、憲法をどのように変えようとも、憲法が憲法としての機能を失うようでは、本末転倒だ。憲法は国の基であり、国民に向けられる権力の在り方を定める。そして、国にはその姿を最大限、具現化する責務があるのだ。つまり、憲法は「国民のための憲法」であり、憲法に対する考えが異なろうとも、国民が共有しなければならないものだ。
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丸山 貴大 大学生
1998年(平成10年)埼玉県さいたま市生まれ。幼少期、警察官になりたく、