真実に徹して生きる

明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は、『修身教授録』の中で次のように言われています--人生の真の意義は、その長さにはなくて、実にその深さにあると言ってよいでしょう。ではそのように人生を深く生きるとは、そもそもいかなることを言うのでしょうか。畢寛するにそれは、真実に徹して生きることの深さを言う外ないでしょう。

そして先生はそれに続けて、『孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」とさえ言われています。これ人生の真意義が、その時間的な長さにはなくて、深さに存することをのべた最も典型的な言葉と言ってよいでしょう』と述べておられます。此の「人生を深く生きる」「真実に徹して生きる」とは具体的にはどういうことなのか、ちょっと考察してみましょう。

私は嘗て、『相対観から解脱せよ』(15年1月30日)と題したブログの中で、森先生の次の言葉、「嫉妬については、わたくしは個としてのわれわれ人間が、自己の存立をおびやかされることへの一種の根源的危惧感にその根源的本質はあると考える」を御紹介したことがあります。人間というのは、人の成功は恨めしく思ったり腹立たしく感じたり、といったふうになりがちな動物です。

しかし在るべきは此の妬み・嫉み・嫉妬の類全てを超越でき、例えば人の悲しみを悲しみとして自らも感じるようになり、人の喜びも喜びとして一緒になって喜べるようになるといった形で、人の悲喜を真に分かち合える生き方だと私は考えます。

更に言えば、『論語』に「君子は人の美を成す」(顔淵第十二の十六)という孔子の言があります。人の長所は長所として認め、人の短所は短所として分かった上で、その「人の美」を追求し、益々それが良きものになるよう手伝ってあげようと思えるのが、君子の生き方なのです。そのように、人の悲喜を真に分かち合うに留まらず、他の人の成長を手伝うところまで行ければ最高ですね。

仮にそうした生き方が出来ているとしたら、その人は取りも直さず一つに、中国古典で言う「自得(じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む)」、仏教で言う「見性(けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める)」が出来ているのでしょう。人生を深く生きるためには「自得」が必要条件だと思います。本当の自分が分からずして、真実に徹して生きることは不可能でしょう。『自己を得る』ことが如何に重要であるかは、古今東西を問わず先哲が諭していることであります。

以上より、私流に「人生を深く生きる」「真実に徹して生きる」を端的に解釈すれば、「自得」「見性」を事柄全てにおける出発点とし、妬み・嫉み・嫉妬の類等々ある意味人間に付き物の性癖とも言い得る様々を超越し、そして本来の自分の良心に辿り着き、その良心に恥じぬ生き方を貫き通す、ということになります。

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