パリ協定に基づく長期戦略について

GEPR

有馬純 東京大学公共政策大学院教授

現在、パリ協定第4条第19項に基づくパリ協定に基づく成長戦略としての長期戦略の策定作業の最終段階にある。4月25日に政府原案が公表され、パブリックコメントに付された。政府原案の概要は以下のようなものである。

(写真AC:編集部)

【基本的考え方】

  • 今世紀後半のできるだけ早期の「脱炭素社会」を目指し、2050年までに80%のGHG削減に大胆に取り組む
  • 5℃の努力目標を含む、パリ協定の長期目標の実現に向けた日本の貢献を示す
  • 温暖化問題解決には世界全体での取組と非連続なイノベーションが不可欠。
  • ビジネス主導の環境・成長の好循環のための長期戦略を策定

【各分野のビジョンと政策の方向性】

  • 2050年に向けて、省エネ、再エネ、水素、原子力、CCUS等あらゆる選択肢によりエネルギー転換・脱炭素化
  • 再エネの主力電源化(劇的な低コスト化、投資の促進)
  • 水素社会の実現(CO2フリー水素の製造コストを10分の1にすること等による生産拡大)
  • CCUの最初の商用化技術を数年内に確立、CCS・CCUを2030年までに実用化し世界への輸出を検討 等
  • モノづくりの脱炭素化
  • 「Well-to-Wheel Zero Emission」に貢献 等

【3つの主な施策】

  • イノベーション
  • 野心的なビジョンの実現に向けた非連続なイノベーションが必要
  • 技術だけでなく市場、インフラ、制度・規制のイノベーション
  • 鍵となる分野のコスト等の具体的目標を掲げた総合戦略策定と科学的なレビュー
  • 世界から指導的人材を集めた国際会議を開催(RD20)
  • グリーンファイナンス
  • イノベーションに取り組む企業の「見える化」等を通じESG資金が集まるメカニズムを構築
  • ビジネス主導の国際展開・国際協力
  • 環境性能の高い技術・製品等の国際展開
  • バリューチェーン全体を通じた削減貢献
  • パリ協定の長期目標に整合的なインフラ輸出 等

筆者は原案を一読して、総じてバランスのとれたものであると感じた。地球温暖化問題はグローバルな問題であり、世界全体の排出量の3%程度に過ぎない日本一国の排出削減だけを追及するのではなく、国境を越えた対策、即ち、「国際貢献」、「グローバル・バリューチェーン」、「革新的技術のイノベーション」で我が国全体の排出量を超える地球全体の排出削減に貢献することが重要であり、長期戦略の「イノベーション」、「ビジネス主導の国際展開・国際協力」はその考え方を踏まえたものと看取されるからである。

同時に筆者の目からバランスがとれていると思われる案は環境団体の目から満足がいくはずがないというのがこれまでの経験である。パブリックコメントでは様々な環境団体がコメントを出しているが、その典型例としてeシフト(脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会)が提出した意見を紹介しょう。eシフトとは「福島第一原発事故を契機に、脱原発と自然エネルギーを中心とした持続可能なエネルギー政策を実現させることを決意した、団体・個人の集まり」であり、長期戦略に対して以下のようなパブリックコメントを提出すべきであると呼びかけている。

  • 2018年、IPCCは地球の気温上昇を「5℃」までに抑える必要があることを警告し、そのためには2050年までに世界の温室効果ガス排出を実質ゼロにする必要がある。日本には、大規模排出国として2050年までに「実質排出ゼロ」への大きな方向転換が求められている。もちろん原発や石炭火力は論外、不確実な技術にも頼るべきではない。
  • 4月23日に提示された「長期戦略案」はそれに逆行するものであり、以下のようなコメントを出すべきである。
  • 2050年に80%削減では不十分、実質排出ゼロとすべき。
  • 石炭火力の廃止についてさえ明言していない。石炭火力は脱炭素化の方向に逆行する。新増設は中止するとともに、既存のものも廃止すべき。
  • 「低炭素電源」として原発の活用や次世代炉の開発を含めている。原発を低炭素電源とすべきではなく、次世代炉もふくめ脱原発を明記すべき。
  • CCS/CCU(炭素回収・貯留/利用)など、不確実な「イノベーション」に頼るべきではない。
  • 地元の状況に沿わないインフラ輸出はすべきでない。海外支援は、持続可能で人権に配慮した形で行うべき。
  • 2030年目標・エネルギーミックス(原発20~22%、石炭火力26%、再エネ22~24%など)は見直すべき。
  • 2050までの脱炭素化に向けて石炭火力やその他の化石燃料をゼロにしていくためには、カーボンプライシングの導入が必要。

予想された内容であるが、この批判を読んでますます原案はバランスが取れているものだとの確信を強くした。ここで展開されている議論は「温暖化防止至上主義」「再エネ至上主義」「反石炭」「反原発」「反イノベーション」という5つの原理主義である。

SDGに明らかなように国際社会が直面している課題は貧困、飢餓の撲滅、保健衛生、食糧生産、安全な水、雇用等多岐にわたり、温暖化防止はその重要な一つであるが、唯一至高のものではない。途上国であればあるほど、これらの目標達成の前提となる経済成長を欲し、そのためには安価で安定的なエネルギー供給が必要となる。2030年▲45%、2050年ネットゼロエミッションというIPCC1.5度報告書で示された絵姿は温暖化防止を唯一の目標とするものであり、限られたリソースの中で多岐に渡る目標を同時に追求しなければならない各国の政治経済的現実を反映したものでは全くない。そもそも世界最大の排出国である中国が2030年にピークアウトすると言っている中でどこをどうすれば2030年▲45%などが可能なのか。

eシフトが石炭を目の敵にしているのも温暖化一神教に基づくドグマである。我が国のエネルギー温暖化政策の基本はエネルギー安全保障、経済効率、環境保全の両立である。温暖化防止の観点のみに基づいて石炭を排除することは他の政策目的を損なうことになる。原発の再稼動が遅れている中で停電をおこさず、電力価格の大幅上昇を伴わずに電力供給が出来ているのは石炭の役割が大きい。世界全体で見れば、これからエネルギー需要が急増するアジア地域を含め、世界中にも賦存し、コストも安い石炭はエネルギー安全保障、経済効率という観点からは強みを持ったエネルギー源である。IEAの世界エネルギー見通しを含め、各種のエネルギー見通しにおいて石炭がシェアを減らしながらも重要なエネルギー源であり続けると見込まれているのはそれが理由である。

このように温暖化防止至上主義は現実の政治経済情勢を反映したものと思えないのだが、仮にその考え方をとるのであれば、温室効果ガス削減のためのオプションを全て動員するのが合理的なはずである。しかしeシフトは原子力もCCS・CCUSもイノベーションも排除し、再エネと省エネのみを推奨する。「再エネは安くなっている」「従来電源とグリッドパリティになっている」というのはこの手の論者の常套文句だが、それならば彼らが主張するように世界中の化石燃料補助金を全て廃止すると共に、世界中の再エネ補助金も全て廃止すればよい。彼らの議論が正しければ補助金なし、市場競争任せでも再エネが普及するはずである。そうなっていないのはコストが低下傾向にあるとはいえ、再エネが未だ独り立ちできていないこと、再エネ拡大に伴い、システム統合コストが発生するからである。こうした点を度外視し、再エネ以外のエネルギー源を排除する考え方は現実的とはいえない。

「イノベーションに頼るべきではない」という議論も面妖である。彼らの意図するところは「原子力、化石燃料関連のイノベーションは排除するが、省エネ、再エネ、バッテリーに関するイノベーションは全面的に支持する」というものだろう。CO2削減という目的に照らせば、このような選り好みは不合理であり、取り得る手段を狭め、対策コストを高めるだけである。

全体を通じてeシフトの頭からは「コスト」という意識がすっぽり抜け落ちているとしか思えない。彼らの提言に基づいて日本のエネルギー温暖化戦略を構築すれば、行き着く先はエネルギーコストの大幅上昇、産業競争力の低下、産業空洞化の進展、経済の沈滞である。その結果、温室効果ガスの削減、再エネ中心のエネルギーミックスという彼らの理想とする社会は実現されるかもしれない。しかし日本の庭先だけきれいにしても、カーボンリーケージが進めば世界の温暖化防止にはつながらない。生産拠点を域外に移して温室効果ガスを大幅削減したといって胸をはっている欧州と同じである。

プラグマティズムは様々なオプションの長所、短所を考慮し、その組み合わせ(更には妥協)を追求するものである。歯切れは悪いかもしれないし、見た目、格好がよくないかもしれない。原理主義は単純明快ではあるかもしれないが、原理主義が人間・社会を幸福にしてこなかったことは過去の経験を見れば明らかである。政府は原理主義に立脚した極論に屈することなく、プラグマティズムに立脚した戦略を策定すべきである。