他人より優位に立ちたいだけ
国政選挙が近くなるとまたぞろ「保守」「リベラル」の論争が盛んになる。2017年の衆議院議員選挙の際には「保守」について語られたが、今回はどちらかと言えば「リベラル」について語られている。
特に「反安倍」を標榜するリベラルは「何故、リベラルが支持されないのか」と自問自答しており、それについてはこのアゴラでも取り上げられた。
参照:彼らも僕らも悩んでいる『なぜリベラルは敗け続けるのか』
では何故、リベラルが世論から支持されず安倍政権に国政選挙で敗北し続けているのだろうか。その答えは簡単だ。リベラルではないからだ。「反安倍」リベラルの正体はリベラル用語を振りかざして他人を攻撃する「こんな人たち」に過ぎない。
彼(女)らにとってリベラル用語は他人より優位に立つための道具であり、俗っぽく言えば「水戸黄門の印籠」である。
時代が時代ならば、例えば1930年代の日本やドイツに「こんな人たち」がいたならば、彼(女)らは「国体」や「人種」について熱弁していたに違いない。
現代の「こんな人たち」は自らが優位に立つために物事を「被害者/加害者」「弱者/強者」の二項対立の図式にあてはめ彼(女)らが考える「被害者」「弱者」への同調を強制する。
同調を強制するのだから「こんな人たち」が唱えるリベラルな社会では個人の意見は尊重されない。常に「こんな人たち」を意識して生活しなくてはならない。
「こんな人たち」が唱えるリベラルな社会とは個性豊かな社会ではなく「リベラルであること」が強制される画一的な社会であり、そこに自由などない。
悲しいことに今「こんな人たち」が跋扈できる環境が整っている。
SNSの爆発的発展によって最悪な意味での「類は友を呼ぶ」現象が成立し自己抑制に課題がある者同士が交流できるようになった。
控えめに言って彼(女)らは少数派だが行動力があり、また、SNSを通じて多数を動員し特定個人をピンポイントで攻撃する。
リベラル用語を振り回す「こんな人たち」はともすれば日本の自由・民主主義社会をあらぬ方向に導く恐れがある。
「こんな人たち」という絶妙な表現
周知のとおり「こんな人たち」とは2017年の都議会選挙の応援演説の際に安倍首相が演説妨害者に対して放った言葉である。
演説全体を聞けば侮蔑を意図して発言したわけではないことは明らかだが、反安倍、特に朝日新聞は得意になってこの言葉を引用して安倍首相による「国民の分断」とか「政権党の度量」云々を強調している。
参照:(社説)参院選 首相の遊説 政権党の度量はどこに(朝日新聞デジタル)
完全なるミスリード、フェイクニュースの類だが朝日新聞は「利用できる」と思ったのだろう。そして得意になって引用している朝日新聞もまた「こんな人たち」と言わざるを得ない。もう報道機関であることを辞めたのだろう。
この朝日新聞による安倍批判の一環としての「こんな人たち」の強調がどれほど効果があるのかわからないが、筆者は「反安倍」リベラルを現す言葉として「こんな人たち」は絶妙な表現だと考える。
演説妨害者に対して放たれた「こんな人たち」だが真面目に考えれば彼(女)らの活動は犯罪であり、何よりも反民主的行為に他ならず「日本版突撃隊」とか「全体主義者」と批判する方が適切である。しかし、どうだろうか。仮に安倍首相が演説妨害者に対して「日本版突撃隊」とか「全体主義者」と批判したら、演説妨害者は案外、気分を良くして舞い上がってしまうのではないか。
これは不良少年が「お前はヤクザみたいだ」と批判されたら「自分はヤクザと同じくらい強くて恐れられている」と勘違いし増長してしまう心理と同じである。
「こんな人たち」はリベラルを自称しているがリベラルな社会を建設する能力などなく「リベラルの敵」と対決することで自らのリベラル性を証明する。
だから「リベラルの敵」たる安倍首相当人から批判されることは彼(女)らにとって自らがリベラルであることの最高級の証明に他ならない。ましてや歴史的存在に例えられて批判されれば、それはもはや「活力」である。
しかし、安倍首相の口から出てきた言葉は「こんな人たち」であり、そこに品性はなくだからと言って下品でもない。平凡さに滑稽さが加わったような言葉であり「反安倍」リベラルから放たれる嫌悪感とくだらなさを一言で絶妙に表現していると言えないか。
「民主党的なもの」との決別を
今「こんな人たち」が野党の周辺を衛星のように回り、機会をうかがい野党を跳躍台にして国政に介入しようしていることは否定できまい。
野党は「こんな人たち」の跳躍台の役割を果たすことがないことを証明するためにも安倍首相に対する演説妨害に対して非難声明を出すとか、思い切って与野党共同の非難声明を発表することも提言すべきではないか。この場合、野党第一党の立憲民主党の責任は大きい。
しかし、残念なことにそれは期待できない。立憲民主党の枝野代表は、安倍首相を意識して「『こんな人たち』に集まっていただいています」と演説したほどだし(参照:日刊スポーツ)、選挙妨害も積極的に非難していない。
立憲民主党の「こんな人たち」への奇妙な態度・姿勢は同党の党是である「立憲主義の回復」に疑念を抱かせるものである。
立憲民主党が政権与党になり「立憲主義が回復される」と「こんな人たち」が我が物顔で闊歩する社会がやってくるのではないか。
枝野代表を批判すればたちどころに朝日新聞を始めとしたリベラル系メディアの記者が予告なし自宅や職場に大挙して押し寄せて「取材」の名目で威圧してきて親族・友人関係が破壊されてしまう、あるいは地域社会から孤立してしまうのではないかと不安を抱いてしまうのが筆者の噓偽りなき本音である。
さて、立憲民主党だが、よく見れば菅直人内閣の主要メンバーで運営されており、民主党左派と言ったほうが正確である。そして「民主党」と表現出来る限り立憲民主党にも「こんな人たち」と同様の滑稽さがある。まさか「民主党は滑稽な存在ではない」という者はいないだろう。
要するに立憲民主党と「こんな人たち」は同根・同類であり活動場所が国会の「内と外」の違いに過ぎない。そしてこの両者をまとめて表現するならば「民主党的なもの」である。
もはや民主党は存在しないが「民主党的なもの」は存在している。立憲民主党と「こんな人たち」がそれであり、両者は隙あらば日本の民主主義を混乱させようとしている。
この「民主党的なもの」がある限り日本の民主主義は動揺し、外交・安全保障・内政の全ての政策分野で膨大な時間を浪費されるだけである。だから日本の未来は「民主党的なもの」から離脱した先にある。
2019年は民主党政権誕生から10年を迎える。数字として切りも良く、民主党政権を思い出すのにちょうど良い。そこで民主党政権時代、安倍首相の言葉を借りるならば「悪夢」を思い出しながら参議院議員選挙を通じて「民主党的なもの」との決別を図るべきである。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員