リベラルってそんなに狭量なんですか
岡田憲司『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)。帯には「私は本書執筆で『友』を喪う覚悟を決めた――著者」とあります。一体、どんだけ手厳しくリベラル批判をしているのかなとページをめくってみると、やさしい口調で諭すように、噛んで含めるように、自身の体験、失敗さえ交えながら「リベラルのこれからの現実での戦い方」を説いていました。
驚きました。「こういう言い方をしてもリベラルの中では友を喪う可能性があるのか!?」と。
筆者の岡田憲治氏は専修大学法学部教授。がちがちに思想を固めている運動体の中心にでもいれば、確かに身内批判はご法度かもしれない。しかし学者となれば付き合っている「友」の範囲は広く学のある人たちなんだろうに…と思うのですが。
おそらく「こちらを批判するってことは、あちらを認めるってことですか!」という単純な二元論があり、リベラルに限らず保守も含めた日本の議論の「硬直化」をもたらしており、「閉塞感」を生み出しているのでは、とさえ思います。それを憂いているのは右派の私だけでなく、リベラルである筆者の岡田氏も一緒ではないか? むしろ政治的に「敗け続け」ているリベラルの危機感が、本書からはビシビシ伝わってきます。
3つのハイライト
次に、この本の中で特に印象的だった箇所を3点、ご紹介します。
①議論とは何のためにやるのか?
議論=論破という改変が起こりがちで、私にも身に覚えがある昨今ですが、筆者はこう述べています。
《政治における議論の目的とは「お互いの分岐点を確認すること」であり、それと同時に「反対派の人たちに『この議論には意味があった』という気持ちを残してあげること」にあります》
いいですね。これ、ぜひやりたい。右と左の発想の違い、なぜそう思うのか、どこからすれ違い入れ替わりしたのかという分岐点が、今の議論ではかなり複雑化しています。これが「右とか左って、何?」と思っている他の多くの無党派層を遠ざけている面もあるかもしれません。「知ってて当然」の威圧感で来られたら怖いですもんね。理解の度合いや深度は人それぞれ違うんですから。興味を持ってくれた人を入り口で遠ざけるのは愚策でしょう。この点も本書では指摘されています。
また、議論することの意味も大事。例えば同性婚一つとっても、「日本の伝統を壊すな」派と、「個人の生き方の問題だ」派、私にはそれぞれ役目があると思うのですが、現状ではただただ対立しており話し合う余地すらない。これは双方にとって不幸だと思うし、何より当事者が最も割を食う。相手の意志を砕く論破ではなく、意味のある議論(だったと感じられること)を。どちらの方向に世の中が進むにせよ、ちゃんと議論してわずかでも自分の価値が反映されるほうがよくないですか。そうじゃないと片方に遺恨を残してゴリゴリ進むか、現状が温存されるだけか、どちらかになります。
②立場の違う人と議論するために必要なこととは
意味のある議論、落ち着いた議論をするためには、たぶんですが「相手を信用できるかどうか」も重要。「彼は左翼だけど日本解体論者ではない」と思えないと話もできないわけです。こういうレッテルを張ってしまえば、当然のことながら「相手の意見に1ミリたりとも歩み寄ることは許されない。だって日本解体論者だから!」という話になりますから。
本書では岡田氏の「ゴリゴリの保守の友人」が登場。周りからは「なんであんな奴と」と言われながらも、友達だから付き合いをやめない、と書かれています。……こんなことまで書かなければならないくらい、「思想の違う人との接触」が危険視される状況があるというのが怖いところですが。
「ゴリゴリ保守の友人」を紹介するくだりで、「改憲派で靖国参拝もする(のに、国を愛することと日米地位協定が両立するのか)」という岡田氏の疑問が()付きで補足されています。この件をぜひご友人と話し合ってもらいたい(そしてその成果をどこかで紹介してほしい)のですが、なぜなら私も右であるがために「日米安保こそ現実路線(だから地位協定も米軍基地もオッケー)」とする(あえて言えば)親米保守という立場には、それそのまま100%には受け取れない疑問があるからです。
私と筆者は「右派とリベラル」という対極にありますが、「ゴリゴリの保守」と目される友人に対して感じる疑問は「同じ」。ここに、議論できる余地があるのではと思うわけです。このような共通項も、立場が違っても話し合いができる相手かどうかにかかわってくる要素かもしれません。
③現実主義とは現状追従ではない
《現実主義という言葉ほど誤解されている言葉はありません。私たちの生きる日本社会では、現実主義とは、即「既成事実屈服主義」という意味になるからです》
思わず赤線を引きまくる一文です。「安倍政権をめぐる論評に、右派として疑問がある」というなかなかこじれた立場の私が直面している壁こそがこの「現実主義と現状追従のはき違え」だからです。これは岡田氏がいみじくも言っているように《脳内の何かを停止させている》。この辺り、ピンときた方はぜひ本書のP215からの1節をお読みいただきたい。
あのリアリストの代表的論者と言っていい高坂正堯は言いました。「理想主義に手落ちはあるけれど、追求すべき価値も見ないとただの現実追従主義に陥るよ!」(こんな口調ではなかったと思いますが…)。
……いかがでしょうか。先にアゴラでご紹介した物江潤『ネトウヨとパヨク』(新潮新書)でも、「話し合いの重要性」が説かれていました。なにか一部の人たちから「分断して論破しあっているだけじゃ、そろそろダメだよね……」という機運が生まれてきつつあるのかもしれません。この流れに乗っていきましょう、積極的に。
※noteでは字数の関係で端折った部分も含めて公開しています。
梶井 彩子