景福宮を焼いたのは豊臣秀吉でなく朝鮮民衆蜂起だ

日本は韓国から多くのものを学んだというが、日本が韓国に教えたもののことはほとんど語られない。しかし、日本が韓国から学んだと言われているもののうちには、中国から直接とか、あるいは、朝鮮半島沿岸を通過したかもしれないが、まったくの通り道に過ぎないものもあるし、百済に在住していた漢民族がやってきて伝えたものも多い。王仁博士、秦氏、止利仏師など日本に文明をもたらした帰化人はほとんどすべて漢民族だ。

また、キムチに使う唐辛子も日本から伝わったものだが、中世以降においてまず日本で使われてのちに半島でも出現したものは、だいたいは、日本伝来だと思うが、よく分からないし、知られていない。

なぜかといえば、誰も調べないからだ。韓国人はもちろんそんなこと調べないし、日本人も興味を持つ人はあまりいない。その結果として、韓国から日本が受けた恩恵は誇張されるし、逆は矮小化されている。

日本人が朝鮮の文化を破壊したのかというと、これもよく検証されていない。朝鮮総督府は、韓国人が見向きもしなかった朝鮮の民衆文化の素晴らしさを見出し、また、李氏朝鮮時代に迫害された仏教文化の復興に努めた。

そして、また、韓国の文化財を文禄・慶長の役や日本統治時代に多く破壊したといわれる。これもかなり眉唾である。

たとえば、文禄の役の際に朝鮮王朝の王宮である景福宮が焼失したが、日本軍に焼かれたのではない。国王が首都を棄てて逃亡した後、かねてより苛政に苦しんでいた朝鮮の民衆が焼いたのである。

再建された景福宮・勤政殿、豊臣秀吉坐像(Wikipediaより:編集部)

それに限らず、文禄・慶長の役のときに文化財の破壊があったというが、そのうち、日本軍によって焼かれたもの、戦闘の結果として焼かれたもの、朝鮮軍自らが火をかけたもの、朝鮮の民衆によって焼かれたものを区別して論じて欲しいと思う。

また、もともと李氏朝鮮の仏教弾圧によって文禄・慶長の役のころには、見る影もなく荒廃していたものもかなりあるようだ。このあたり、予断を交えず、調査整理すべきだと思う。

韓国の遺跡を訪れると、観光ガイドは、文禄・慶長の役のときに焼かれたとかいうのだが、もう少し詳しく教えてくれと言ったら、だいたい、言葉を濁す。あるいは、高麗時代は立派なお寺だったが、その後、荒れ寺になっていたなどというから矛盾していたりもする。

書籍をみて調べようとしても、だいたいそのあたりごまかして、日本に責任がないものまでも日本のせいであるように「印象操作」がされていているようだ。

そういう間違った被害妄想が、日韓友好の棘になっているとしたらとても残念なことではないか。ともかく、文化財案内などをみてもまるで具体的な記述は少ない。もし本当なら、加藤清正の軍が何年何月何日にどのようにして略奪し焼いたか詳しい記録が残っているはずなのである。

もちろん、日本軍が何もしなかったなどと言うつもりはない。互いに、申し訳なかったこと、恩恵を受けたことなど客観的にしっかり調べるのがすべての出発点だと思うだけだ。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授