「殴られて育った」美談の危うさ 〜 通りがかりのおじいさんの説教問題

常見 陽平

毎年、この時期は少年に戻る時期である。SUMMER SONICに3日間参戦中だ。1日目はバナナラマで高齢化社会にも希望があると確信し、B’zこそ本当のロックだと興奮し、amazarashiから人生を生きる視点を学んだ。

2日目はレッド・ホット・チリ・ペッパーズがあまりに枯れていて、演奏もアンサンブルがイマイチでがっかりしつつも、サンボマスターとTOTALFATで大暴れし、大満足だった。今日はこれからキズナアイ、中田ヤスタカwithきゃりーぱみゅぱみゅ、Perfume、ZEDD、ザ・チェインスモーカーズで踊りまくる予定だ。

「家族をほっぽりだして、自分だけ遊んで…」と言われそうだが。普段の自分へのご褒美である。最新作でふれたが、私は普段、1日6時間家事をしており。「主夫」をしている。家事・育児に没頭する主夫が泊りがけで宝塚を本場で観るように、この期間は、ご褒美期間なのだ。

この本でも述べたが、私たちは「子供はこう育てなさい」という上の世代からの教えが必ずしも通用しない時代を生きている。夫婦で働く時代だ。ワンオペではなくシェアオペで育てる時代だ。祖父母や兄弟など家族・親族、そして社会や各種サービスの助けをもとに育てる時代だ。教育においても、スポーツにおいても、いや営業の現場ですらも、今までの「しごき」が否定され、科学的な方法が模索されている時代である。今までの「正解」なるものが必ずしも通用しない時代を私達は生きている。

しかし、だ。私が家族をほっぽりだしてロックフェスに行っている間に、恐ろしい事件が起きた。私は東京都墨田区の下町のマンションに住んでいる。私がいない間に、妻が娘を図書館に連れて行った。娘が自動販売機を見て「ジュース買って」とねだる。断る妻。娘は泣き出したのだ。

そのときである(川口浩探検隊風に読むこと)。通りがかりのおじいさんが妻にこう説教を始めたのだ。

「殴れ!とにかく殴れ!私は息子をそうやって育てた。孫も一発殴ったら言うことを聞くようになったぞ!」

「カサブランカ・ダンディ」かよ!沢田研二かよ!

彼は、殴ることの効用について、私の妻に対して熱弁をふるい始めたのだ。私達は親父にも殴られたことがないのに。あんたの時代はよかった。いや、よくない。

まだ、このおじいさんが殴ってこなかったのが、不幸中の幸いではある。しかし、これは育てることの価値観に関する問題だ。ジェネレーションギャップである。高齢化社会が進む中、様々な価値観が同居する社会を私たちは生きている。帰省シーズンでもあったので、この子育ての方針や方法をめぐり上の世代と対立することはきっと読者の皆さんも多かったのではないだろうか。

育児に限らずだが「通りがかりのおじいさんの説教問題」は皆さんも悩んでいるのではないか。突然、張本勲が現れるような感覚である。通り魔ならぬ、通り喝問題だ。

企業や学校でも、特に40~50代で、暴力的な指導を「厳しい指導」「熱い指導」などと勘違いしている人がいる。「○○さんのおかげで成長できた!」などという会社員や学生もいるが、いやいや、こういう人は他の方法ではもっと育った可能性があることを考えていない。残念な連鎖だ。

言うまでもなく、殴ることは論外である。息子も孫も黙ったというが、一方で彼も孤立したのではないか。このことをFacebook、Twitterでつぶやいたら「殴り方、これでいいっすか?」とそのおじいさんを殴ることを提案する声があったが、さすがに私もそうはしない。

もちろんこのようなおじいさんだけではない。普段は娘と私達が歩いていたら、「かわいい」と声をかけてくれる優しい方がほとんどだ。おじいさん=暴力的な人というのも違う。老若男女を問わず「この人はどんな人なんだろう?」と想像力を大事に接することは大事である。

ただ、この「通り喝おじさん」のような物理的な暴力、言葉の暴力が許された時代に生きてきた人たちは迷惑以外の何者でもない。殴れない、殴らない時代の、幸せな育児の模索を続けていきたいと思う。

さ、家族に3食分のご飯をつくって、今日もサマソニへ。

最新作、よろしく!こういうモヤモヤを書き綴っている。


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年8月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。