「加害責任」は大義名分
夏になるとやはりアジア・太平洋戦争の話題で盛り上がる。「何故、あの戦争が起きたのか?」という議論はもちろん左派を中心に大日本帝国の「加害責任」を問う声も大きい。
例えば朝日新聞は次のような記事タイトルを出している。
更に社説を読めば朝日新聞の「加害責任」への関心の高さがよくわかる。
忘れてならないことがある。侵略と植民地支配により、日本以外の国々に及ぼした加害の事実である。大東亜共栄圏を掲げた日本は各地の要所を占領した。現地の人を巻き込み、犠牲を強いた。
朝日新聞を始めとする左派は「加害責任」を問うべきだというけれど、左派にこれを問わせた場合、単に「問う」だけでは済まない。たちまち「断罪」が始まり、どういうわけか保守派・改憲派が攻撃される。
はっきり言って左派の目的は「加害責任」の名の下に他人を攻撃する立ち位置を占め、自らの政治目的(護憲、反安倍等)を達成することである。左派にとって「加害責任」は政治的対立者を攻撃するための大義名分に過ぎない。
厳しい現実を言えばアジア・太平洋戦争の評価について敗戦国である日本の主張が国際社会で受け入れられる可能性は低い。
国内の教育も教科書検定制度こそ導入しているけれど「国定教科書」を策定しているわけではないから歴史認識問題では日本はどうしても「受身」になってしまう。
「加害責任」の名の下に日本を攻撃することは反撃も極めて限定的だから政治的コストも安い。
だから自己抑制に課題があり誰も救う能力がなく「生産性がない」を地で行く日本の左派にとって中国・韓国の側に立ち「加害責任」を強調して日本を攻撃することは最高の自己正当化手段である。
「日本軍は中国と韓国にひどいことをした。謝罪と賠償をすべきだ」という主張の外には「だから自分達は正しく社会に必要なのだ」という主張がある。
左派は中国・韓国を「被害者」と位置づけ寄生し、ただただ日本との対立を煽るのである。
彼(女)らは極右と同じ極めて単純な白黒・善悪思考の持ち主であり、もし1940年代初頭に生きていたら「大陸での英霊の死を無駄にするな」と絶叫し、対米開戦を主張していたに違いない。
「二重国籍」保有者に「加害責任」は問えるのか?
当たり前だが「加害責任」を問うことは戦前と戦後の連続性を前提としたものである。
大日本帝国と戦後日本は同じ「日本」と「日本人」から成っているという大前提があってこそ「加害責任」という考えが成立するのである。大日本帝国と戦後日本に「断絶」があれば「加害責任」は成立しない。
大日本帝国と戦後日本の連続性だが具体的には日本列島と琉球諸島を領域とする国家を「日本」、そしてそこに住む人間を「日本人」と判断して「加害責任」は成立するのである。「加害責任」とは「国民国家」を大前提とした議論であることを忘れてはならない。
しかし、どうだろうか。左派は国民国家を前提に「加害責任」を議論しているのかだろうか。率直に言ってかなり疑問である。戦後日本で左派は誰よりも「国民国家」を嫌悪し、隙あらば「ナショナリズムの危険性」を説いていなかったか。「日本」や「日本人」という概念を強く非難していたのが左派ではなかったか。
左派はバラエティー番組の日本特集にいちいち反応し「日本スゴイ」を批判していなかったか。
テニスの大坂なおみ選手を語ると必ず出てくる「二重国籍」の話題に好意的反応を示していなかったか。およそ左派で「二重国籍」を否定する者はおるまい。
そしてこの「二重国籍」だが「加害責任」を問うことの難しさを教えてくれる。
例えば一方の国籍が大日本帝国とは全く無縁だった場合、「加害責任」をどこまで問えるのだろうか。「父方の先祖は英国人。母方の先祖は日本人」の場合、どうするのか。英国は戦勝国である。「二重国籍」保有者に対して「加害責任」を問うとした場合、個人の遺伝子や血統にまで議論が広がる可能性が出てくるだろう。当然、これは重大な人権侵害である。左派はそこまで考えて「二重国籍」や「加害責任」について議論しているのだろうか。
もちろん現在の日本は「二重国籍」を認めていない。しかし将来はわからない。ここで主張したいことは「日本」や「日本人」を主語にして「加害責任」を問うことはともすれば「個人の尊厳」を踏みにじる危険性すらあるということである。
東京オリンピック閉幕後に見られるもの
左派は普段は「日本」や「日本人」の概念を批判するけれど、8月15日以降になると唐突に「日本」や「日本人」を重視する。言うまでもなくこの二つを断罪するためである。曖昧模糊な対象は断罪の対象になり難い。左派はある時は「日本」や「日本人」を否定し、ある時はこの2つを肯定する。
人間は生まれる国を選べない。当然、国籍も選べない。安易に変えることも出来ない。
特に日本のように大規模な海外移住の文化がない国ではそうである。
「国家」と「国籍」は人為的なものだが個人の平和と人権を守るために必要不可欠なものである。そういうデリケートなものに対して時期によって真逆の評価を下すことは極めて問題があると言えよう。
来年、東京オリンピックが開催されるが、その開催期間は7月24日~8月9日である。
仮に東京オリンピックで日本人選手が活躍し日本中が熱狂した場合、左派はナチス・ドイツが開催したベルリン・オリンピックを例に挙げて「ナショナリズムの危険性」を説くに違いない。日本人選手がメダルを獲得し世論から「日本人スゴイ!」という声が聞こえれば「凄いのは選手個人であって日本人は関係ない」とも言うだろう。
実際、平昌オリンピックでは左派の有名女性ジャーナリストがこの種の言説をしている。
オリンピックが歴史ある国際的イベントであることを考えれば、たとえ日本人選手がメダルを獲得しなくても「日本」や「日本人」を肯定的に評価する空気が生まれるのは確実であり、左派がそれを批判し、最悪、嘲笑する光景が見られるだろう。
そしてオリンピックが閉幕し、まだまだ世間で「日本」や「日本人」を肯定する空気が強い中、左派は8月15日を境にオリンピックで熱狂した世論以上に「日本」や「日本人」に固執するだろう。
本来なら個人に着目して議論した方が正しいものですら職業や滞在場所(大陸、南方、戦地、銃後等)時間軸(戦前・戦後)などを一切無視し「日本」や「日本人」を主語にして語り、我々に対して「加害責任」を説き、中国・韓国・北朝鮮への謝罪と賠償が義務であることを主張するだろう。わずか1ヵ月の間で彼(女)らの主張と態度が激変するのである。
来年の今頃、左派は「正視に堪えない」という言葉すら足りない発言・振る舞いをするだろう。かなりおぞましいが左派対策のためにも我々はこれを見つめる必要がある。
まあ、鳥肌が立つくらいひどい光景だろうから、暑さ対策にはなるかもしれないが…
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員