昨今の報道で世間の関心も高まりつつある「あおり運転」問題。
ドライブレコーダーの普及により、従来なら泣き寝入りさせられていたであろう被害者も、声を上げる証拠を得やすくなったのも一因であろう。
その映像を確認すると、よくもこんな暴挙に及んだものだ、と怒りを通り越して呆れすら感じてしまう。
ところが、多発する各種の事件に際して、加害者に同情的とまではいかないものの、あおり運転自体は否定しない意見が案外多く聞かれるのである。
「この容疑者はひどいけど、自分もたまにモタモタ走っている自動車が前に入ると、あおりたくなる気持ちは解る」
確かに、急いでいる時に追い越しができない道路をふさぐような低速で走っているドライバーに遭遇すると「先に行かせてくれ」と言いたくなる気持ちは解らないでもない。
しかし、ここで問題にしているのは、その攻撃的なネガティブ感情を行動(嫌がらせ、暴力など)に表わしてしまう短絡的な思考と粗暴さであり、何も内心に湧き起ってしまう煩悩まで非難するつもりも資格も、筆者にはない。
にも関わらず、実に少なからぬドライバーが遠回しにあおり運転を擁護したがるのは何故だろうか。まるでいじめ問題について「いじめられる側にも原因となる問題がある」という言説そのものである。
あおられた側に明白な悪意の証拠でもあるならともかく、ほとんどの場合は「あおられた(と感じた)からあおり返した」という歪んだ正当性の主張(言い訳)であり、まるで子供が「先に殴ったのは相手だから、自分の反撃は正当な権利である≒自分は悪くない」と強弁するのと何も変わらない。
とかく暴力を奮いたい動機(ムシャクシャ等)が先にあって、理由など何でもいいから、いちゃもんをつけてやろう……意識するしないに関係なく、潜在的な暴力への欲望が、ストレスフルな現代社会をより鬱屈したものへと形成している。
何よりあおり運転に怒りを覚えるのは、犯人が「相手が反撃などしてくるまい」とタカを括ってかかる卑劣さである。
例えば黒塗りのベンツや、あるいはパトカーがあおり運転の被害に遭った事例を筆者は寡聞にして知らないし、恐らく今後も起こらないだろう。
狙われるのはいつも弱者である。弱い者いじめしか愉しみのない卑劣な連中を決して容認すべきではないし、そのような邪心の発露を恥じて振舞いを慎むのが、あるべき大人の姿ではなかろうか。
報道によれば、あす27日にあおり運転の罰則強化を視野に入れた抑止策の協議(自民党・交通安全対策特別委員会)が行われるという。
罰金額の引き上げや懲役期間の延長(殺人および同未遂罪に準ずる程度まで)、そしてドライブレコーダーの普及促進など、本気の取り組みによって、天下の往来から卑劣な輩の一掃を切望している。
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角田 晶生(つのだ あきお)フリーライター。
1980年、神奈川・鎌倉生まれ。海上自衛官の任期満了後、2010年より現職。防衛・人材育成・歴史・地域文化などをメインに、職業やボランティア経験に基づく寄稿多数。