浮き輪をつけて手を持ってもらい、引っ張られているだけで泳げるようになるでしょうか?今の教室の学び方はそうなってないでしょうか。
失敗しないように、それでいて退屈しないように、教師がお膳立てする。そんな環境で子どもたちに将来生き抜く力が本当につくのでしょうか。さらにいえば、教室にいるたくさんの子どもたちを見渡した時、その教師のお膳立てに乗り切れていない子がどれだけいるでしょうか。
一昔前は確かにこういう環境がよく機能しました。なぜなら子どもたちの持っている知識にそこまでばらつきがなく、社会情勢を見ても一定の成功ルートがあり、そこからそれないことが幸せへの近道だったからです。
しかし時代は変わりました。それも、最近のことではありません。とっくに社会も、子どもたちも変わっているのです。そんな中、教育は変わることができていない。旧時代の教育方法はもう、子どもにも、社会にも求められていないにもかかわらず、教育だけが取り残されているのです。
では、新時代の教育を考えようとするとき、そのキーワードは何でしょうか。前述の文章からは「任せる」が一つのキーワードとして浮かび上がります。浮き輪をつけて手を持ってもらい、引っ張られているだけで泳げるようにならない。教師は子どもたちの手を離し、水中へ解き放つような関わりが必要なのではないでしょうか。
しかしそうはいっても手を離すのは怖いですよね。手を離したらおぼれてしまうのではないか。もしくは足をついてプールから逃げてしまうのではないか。そんな疑いの心が子どもたちに何かを「任せる」心を曇らせます。子どもたちに何かを任せるには、そこに子どもたちを「信じる」気持がなければならないのです。子どもたちはきっと泳げる。教師が想定している何倍もの力を秘めていると。そしてそれは、「事実」です。
30人前後の子どもたち(というか人)が集まったとき、その子たち全員がすべてにおいて教師より劣った能力しかないというような前提が成り立つはずがありません。子どもたちは「有能」なのです。そうした前提のもと、子どもたちを信じ、任せるような関わりこそが子どもたちを真に成長させるきっかけを与えるのだと思います。
任された子どもたちは学びの海を手探りでぎこちないながらも泳ぎ始めます。始めからうまくできるはずはありません。水を飲んでしまう子、泳ぎをやめてしまいそうになる子、反対に任せた瞬間から驚くほど自由に学びの海を泳ぎまわる子。いろいろな子が現れます。
任せた後には子どもたちを「認めて」やらねばなりません。それはうまくいった時も、うまくいかなかったときも、です。任せたはいいものの、その結果だけを見てその子のチャレンジを否定してしまえば、その子は教師の「任せる」気持を受け取ることができなくなります。
つまり、今、社会に、そして子どもたちに求められている教育とは「信じて、任せて、認める」教育なのではないでしょうか。「疑い、任せず、認めない」教育から脱しなければならないのではないでしょうか。
葛原 祥太 兵庫県公立小学校教諭
1987年、大阪府生まれ。同志社大学を卒業後、兵庫教育大学大学院へ進学。卒業後、公立小学校に勤務、現在に至る。小学校の宿題の在り方に疑問を感じ、家庭学習において、子どもたちが自分の学習を自分で作り上げる「けテぶれ学習法」という方法を提唱し、ツイッター上で発表。多くの教師から注目を集める。現在は宿題改革の切り口から、これからの社会に求められる教師の在り方を啓発するため、講演会、執筆活動などに活躍中。ブログ、ツイッター