台湾総督府編「台湾統治始末報告書」を読む④終

>>>①はこちら
>>>②はこちら
>>>③はこちら

国立国会図書館デジタルコレクションより:編集部

在留日本人の動向

終戦直後、蒋主席は…日本人に対する報復を戒め、日本国民に深き感銘を与えたことは記憶に新たなる処でありますが、本島に於きましても…在留日本人また官民共に相成るべくは、五十年日本領土たりし本島の特殊事情を中国側に容認せしめ、永年辛酸努力の結晶たる在留日本人権益の保続を図り内台共存の基礎の上に将来日華親善の先駆たらんとの念願の下に強く残留を希望したのであります。

然し乍ら現実の社会状勢は、…渡台早々中国側は本島民心の把握及び民族意識の昂揚を図るに急なるの余り、日本統治の非難、解放光復の協調に努めたる為、一部無理解の本島人間に誤れる対日本人観を醸成し…一部不逞の徒は或いは財物を強奪し、或いは金品を強要するものあり…

これが為在留日本人は敗戦の惨苦を嘗めつつこれに抗するに術なく、加うるに終戦以来高騰の一途を辿りたる物価の重圧、家屋の接取、不法収奪に依る住宅難並びに在留日本人権益資産は全て中国に接収の上、賠償に充てられる方針が漸次明確になりたる等の事情に因り、漸次当初の留台希望弱まり、遂には在留日本人の殆ど大部分が、各種権益及び資産に対する愛着を断ち、苦難に満ちたる母国に裸一貫にて新生途を拓かんと決意を固むるに至りました

在留日本人の還送及び財産処理

在台日本人の還送に就きましては、中国及び米国の協議により決定しました方針に従い、昨(*1945)年十二月下旬よりまず軍の輸送を開始し、二月下旬には八万人の軍人遺家族、次いで一般居留民の還送を開始し、四月下旬を以て総数四十余万人の計画輸送を完了致した次第であります。

一般日本人の還送業務の実施に当たりましては、総督府以下の行政機構は中国に接収せられました為、全島的連絡の機能を喪失致しました関係もあり、軍の機構を中核と致しまして約一万人の将兵を残留せしめこれに従事せしめました外、日本人官民より所要の陣容を補充し、軍官民一体となり円滑なる還送の実施に当たらしめたのであります。

還送に伴う在留日本人の財産処理に関しましては、中国側及び米国軍との協議の結果、一人当たり千円、郵便貯金通帳及び中国本土より若干緩和せられたる数量の衣類寝具その他の身の回り品の携行を認められたる外は、全て中国側の接収する処となり、接収資産に就きましては、中国側の一方的評価に依る私有財産清冊及び企業財産制冊と称する証明書を交付せられた次第であります。

結論

台湾在留日本人は…あらゆる苦難に耐え戦後日本再建に最善の儀を致すべく、その心境悲痛の中にもまた希望と意気に燃えて母国の土を踏んだのでありますが、生活の本様を失い、資産権益を放擲して裸一貫となり帰還いたしたる次第でありまして、その中には少なからず生活に困窮を告げ、社会の落後者となるものもあり得たることと存じ、憂慮に堪えぬ処でありまして、帰還者の援護に就きまして政府の格別の配慮を構成致す次第であります。

最後に、台湾は日本の版図より離脱致しましたのでありますが、半世紀に亘る日本との関係は急激に切断し得るものでなく、文化、産業、経済の各部門に亘り、今後に於いても日本との連繋を要するもの少なからず存するものと思料せられます。日本と致しましても今後なお台湾に対する関心を失わず、交易、文化交換等の平和的方法に依り、互助互恵の関係を維持し、国運再建の一助とし、併せて日華提携に寄与する処あらんことを衷心念願して已まぬ次第であります。

軍人の家族と一般の日本人30数万は、1946年2月下旬から僅か2ヵ月の間に慌ただしくも整然と台湾を後にした。それはちょうどその半世紀前、日清戦争からの復員兵23万の検疫に後藤新平が要したのと奇しくも同じ期間だった。

引揚者を運んだ病院船「橘丸」(1946年撮影、Wikipedia)

伊藤潔氏の「台湾」にも見られる「一人当たり千円、…その他の身の回り品の携行」を許されたとの記述は本報告書の引用か。引揚者がすべからく「生活の本様を失い、資産権益を放擲して裸一貫となり帰還」し、「少なからず生活に困窮を告げ、社会の落後者となるものもあり」とは実に胸が痛む。

その辺りの引揚者の心情とそれを見送った本島人の思いを綴った記録が手許にある。それは日治時代、台湾随一の運輸会社だった「日東商船組」を高雄で興した大坪與一の子息、大坪佐苦楽元社長夫妻が1985年(昭和60年)に高雄を訪れた際の訪問記だ。引用文の解説を引用を以てするのは気が引けるが、実に胸を打つ記述なのでぜひご容赦願いたい。

大坪佐苦楽  -序にかえて-

無条件降伏の詔勅を二十年前疎開先南投の明治製糖工場長宅で右田先生(*高雄の医師。杉本音吉、陳中和、大坪與一を看取った)と一緒に聞いた時、「よおし、これから全会社の方々に御恩報じをする時だ」と心に誓い蹶起すべきだったのです。

当然受くべき会社の接収という事態が済んだ瞬間、接収官であった台湾鉄路局長に「接収は終わった。然し長年月日東運輸と共に奮闘努力した優れた台湾の社員の方々が、後顧の憂いがない様に就職を斡旋して貰いたい、そうする事が在来の台湾の方々と新しく中国本土から貴官達との真の友愛を生む基になるのではないだろうか」と氏名、年齢、職歴を明記した名簿を提出すべきだったのでした。そうする事が私の義務であり、責任であり取るべき道であったのです。

また日本に引き揚げられた方々に対しては、宇品上陸と同時に東京に飛び、東京に本社があり昵懇な三井物産、日本郵船、大日本精糖、明治製糖、台湾製糖の各社長が居られたから、同様な名簿を提出して就職のことをお願いせねばならなかったのです。

皆様方が常日頃日東運輸に対して尽くされた御奮闘御努力に対し、何ら御手伝いも致さず、徒に皆様の足手纏いになってばかりいた私は、この最後の御奉公とも申すべき大切な事柄を致さなかったと言う事は誠に慚愧に堪えない次第であります。今迄も今後も皆様方に御詫び申し続けるでしょう。

張濽(本島人従業員)

私は今晩特に感じたことを社長さんによく聞いて貰いたいのであります。それは、日東運輸は二十年前に解体されましたが、「日東精神」はこの通り厳然として未だに台湾に残っている事であります。私は社長さんご来台の第一報を受け取りました時、それを読んで泣かされました。悲しい涙と嬉しい涙が交互に溢れました。それには先代故大坪與一翁が至誠一貫汗と血と涙で築き上げた日東商船組の事業を、それを継がれた佐苦楽社長が資本金を倍額も増資し、これから大いに事業発展に乗り出そうとする矢先、あの嫌な戦争によって滅茶苦茶にされました。…どうか社長さん、日本へお帰りになりましたら、よくよく日本に居られる諸先輩方に台湾にはまだ「日東運輸」の魂が残っていることをご吹聴下さいますことをお願いします。…二十年も使わない日本語で、お聞き取りにくい台湾訛の日本語で恐縮に存じます。

大坪佐苦楽 -帰国後日本社友への御挨拶-

二十年前の本支店出張所所在地をお伺いし、各地の社友の皆様方が各方面で立派に御成功を収められ益々刻苦勉励され、その地盤を愈々拡大すべくご奮闘あそばされている姿に接し、私共は誠に心強く頼もしく感じました。

台湾の現在の建築物、道路、港湾等を見学させて頂き、見るもの聞くものその伸展振り、発達の長足の進歩には唯唖然として驚嘆するばかりでございます。私共が引揚の二十年前と比べて、日本の復興は目覚ましいものがありましょう。オリンピックも昨年に開催されそれに伴い各種の建築物、道路等は新しく施設されましたが、それはオリンピックを成功させるための一部分に過ぎないのであります。台湾の地に足の着いた力強い進展を前に、私共日本人は今一人残らず兜の緒を締め直さねばならぬと自覚致しました。

引揚げ後に様々苦労した大坪佐苦楽夫妻は台湾再訪の当時、郷里の佐賀で焼鳥屋を営んでいたとのこと。また現地の従業員の一人が與一翁の墓守を今もってしていて、翁の曾孫が墓に残した住所に宛てて、拙い日本語の混じる中国語の手紙を寄こした話は先述の投稿に書いた。 完

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。