主催者の責務
あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトレ」)の「表現の不自由展・その後」を巡る騒動では「作品の展示の中止」という極めて重い措置が下された。これに対して検証委員会は「差し迫った危険のもとの判断でありやむを得ないもの」(1)と評価し、これ自体は正しいと言える。
一方で危機管理という観点で言えば「差し迫った危険」だけではなく「予測される危険」という考えも重要である。あいトレは数十万が来訪する大規模イベントである。
これほどの規模のイベントで「予測される危険」を含めない危機管理は現実離れを通り越して無責任である。
なによりも「表現の不自由展・その後」の作品は愛知県の振興とは全く無縁であり、日本社会を挑発する性格があり危険を招来しやすいものであった。特に「昭和天皇の個人写真の焼却」はその性格が強い。リベラルを自認する方々は昭和天皇の個人写真の焼却に鈍感なようだが、例えば「平和の少女像」の隣に「職業に貴賎なし」とか「30分6000円」のプラカードが置かれることを想像されたい。昭和天皇の個人写真の焼却はそれぐらいの「破壊力」がある。
一方でおよそ危機管理は作家からの評判は悪い。危機管理の名目で作品の幅が狭められる可能性があるからだ。特に現代アートのように作品の移動が簡単ではない表現は危機管理の影響を受けやすい。作家が危機管理に反発するのは当然と言えよう。
事件・事故防止のためにも危機管理は正しいが、それに対する作家の反発も正しい。
あいトレ騒動の問題とは実のところ、どの世界でも起こりうる、人間なら誰しも経験する「正しい」もの同士の衝突である。そこに白黒はっきりした明快な答えはない。
ここで問われるのは主催者の姿勢であり、部外者のように「危機管理と表現の自由の両立は難しいね」と苦笑いして終わらせてはならない。主催者は「危機管理と表現の自由の両立」を成立させる責務がある。
そして「両立」を実現するために主催者に期待されていることは「利害調整」という役割である。芸術監督にその役割が期待されていたと思われるが、今回のあいトレでは芸術監督自身が危険を招来させたのだから、芸術監督に利害調整は期待出来ない。となると主催者側の人間で利害調整の役割を担うのにふさわしい立場は実行委員会会長に他ならない。
しかも実行委員会会長は「政治家」であり、一般に利害調整が得意と思われる身分である。
ところが中間報告では
芸術監督の上で会長(知事)は全体を掌握する立場にあるが、政治家であるため日本国 憲法第21条の表現の自由及び検閲禁止の規定に縛られ、展示内容については芸術監督に すべてをゆだねざるを得ない立場にあった。
とし(2)、なんと「政治家」という身分が利害調整を妨げる根拠となってしまっている。
中間報告は「身分」と「権限」を混同させて話を進めている。「身分」は「権限」を制約する根拠にならない。
例えば民間人の身分で国務大臣に就任したとしても国務大臣の権限が制約されないのと同じである。仮に「制約されている」ように見えた場合「あの人は民間人だから仕方がない」という意見も極小派ではないか。普通は「資質」の話になるはずである。
権限ある立場の者にその権限を適切に行使することが期待されるのは当然のことである。
立場とはそういうものではないか。
あいトレの騒動で必要なのはなぜ実行委員会会長に「政治家」という身分の者が就任するのかという視点であって、それは主催者の一員として利害調整の役割が期待されているからに他ならない。
そしてこの利害調整に失敗したのが大村知事であり、その失敗を覆う理屈を提供しているのが検証委員会である。
「痛みの共有」を避けた大村知事
「政治家」という殻にこもり関係者の利害調整に失敗した大村知事だが、少女像の展示の見直しを芸術監督に迫ったように全く利害調整しなかったわけではない。しかし、その調整に失敗した。政治家でありながら一民間人を説得出来なかったのである。このレベルだと実行委員会長や愛知県知事という地位ではなく政治家・大村秀章にも触れる必要がある。
政治家・大村秀章は利害調整の重要性を知らないわけではない。彼は知事のみならず国会議員、しかも与党の国会議員を務めた経験もある。そんな政治家が利害調整の重要性を知らないわけがない。
ただ政治家・大村秀章は利害調整の「利」の調整の関心が強かった。大村氏は例えば「この話し合いで関係者は皆、納得した」という台詞を聞けば「皆、喜んでいる」と無邪気に思うタイプである。利害調整というと案外、こういう理解の方が多い。「Win-Winの関係で行こう」という台詞もよく聞く。しかし利害調整は「利益」や「得」を共有するだけだろうか。
利害調整とは「害」の調整もあるのではないか。要する関係者の「損」の共有である。「痛みの共有」といった方がわかりやすいかもしれない。
特にあいトレのように「文化・芸術の振興」といった「利益」が曖昧で想像しにくい場合は「痛みの共有」という視点に立った方が関係者の合意は得られる。大村氏はあいトレの趣旨を根拠に「展示拒否」という「痛み」を作家に求める覚悟を持つべきだった。その覚悟があってこそ「危機管理と表現の自由の両立」が成立するのである。
そして「痛みの共有」とは民間人ではなかなか出来るものではない。だから政治家にこそ求められる視点であり、大村氏にはこれが欠けていた。彼は「利」の調整ばかりに関心が行き八方美人的に振舞い、その結果、全てが中途半端になり今回の騒動を引き起こしたのである。あいトレに限って言えば大村氏は政治家の自覚も欠如していたのである。
前回記事で筆者は大村氏を主催者及び行政責任者としての自覚が欠如していたことを指摘したが政治家としての自覚も欠如していたことを加えなくてはならない。
以上を踏まえて言えることはあいトレの最高責任者の席には実行委員会長も愛知県知事も政治家もいなかった。ただ大村秀章という男がいるだけだった。これが今回のあいトレ騒動の本質である。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員
(1)あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 中間報告 94頁
(2)同上 93頁